〈メネラオスの宮殿で嘆くテレマコス〉
ヘレネのオデュッセウスの思い出
ヘレネは、静かに語りはじめました。
「この場にふさわしいオデュッセウス殿の手柄話をいたします。パラディウム(アテナの木像)を奪うために、オデュッセウス殿はわれとわが身を傷つけ、ボロをまとい、奴隷のごとき風体でトロイアの都城に侵入してきたのです。それに気付いた者は一人もおりませんでした。私だけが正体を見破り、彼に質問したのです。
オデュッセウス殿は、最初はうまくはぐらかしておりました。でも、彼をお風呂に入れて、ギリシャ軍の陣地に帰り着くまでは、決してその正体をトロイア人に明かしたりせぬと固く誓った時、侵入した任務を話してくださいました。その任務は成功して、パラディウムを盗んで帰られたのです。その際、幾人かのトロイア人が殺され、その家族が泣きました。
ですが、私の気持ちは帰国に傾いておりましたので、うれしく思いました。アフロディテによる心の迷い、かわいい娘も夫婦の寝所も、心も姿も非の打ちようない夫を捨て、女神に導かれるままに故国を後にし、トロイアまで来てしまった自分の迷いが口惜しくてならなかったのです」
パラディウムとは、都市の安全を守るとされた古い像のこと。パリスの死後、オデュッセウスはトロイア王プリアモスの息子で予言者ヘレノスがトロイアを去るのを見つけとらえました。
そして『パラディウム(アテナの木像)がある限り、トロイアは陥落しない』ことを聞き出したのです。これを盗むために、オデュッセウスはディオメデスとトロイアの都城に忍び込んだのです。
ガストン〈ヘレネ〉
トロイアの木馬でのエピソード
メネラオスが続けて語りました。
「奥の言うことはもっともだ。今まで多くの英雄や豪傑をみてきたが、オデュッセウスほどの男をかつて見たことがなかった。あの木馬の中にじっと隠れていた時のことだ。トロイアに味方する精霊が奥をそそのかして、『だれかが隠れているかもしれない』とギリシャの武将の懐かしい奥方の声をまねさせ、外から呼びかけていた。
我らはそれに答えようと気がはやったが、なんとか押し黙った。が、若いアンティクロスが今にも声を出して答えようとした。そんな彼の口をおおい、押さえつけ、我らアカイア(ギリシャ)勢の危機を救ったのがオデュッセウス殿。女神アテナが、その場から奥を引き離してくださるまでな」
テレマコスは答えました。
「ゼウスの愛を受けたメネラオス王よ、そのようなお話を伺うと、まことに口惜しい気がいたします。しかし、今はもう、我らは寝室に引き下がらせていただけませんか」
こうして、メネラオスとヘレネも一緒に幸せな寝室に引き上げました。
オデュッセウスの帰国を20年間も待った貞淑な妃ペネロペイアは、ヘレネについて後にこう語っています。
「ゼウスを父とするあのアルゴスのヘレネにしても、勇猛なアカイアの子らが、やがて自分を故国へ連れ戻すことになると知っていましたら、パリスと契って愛欲に耽ることもなかったでしょう。
あの女が恥ずべき罪を犯したのは、神様がそそのかされたからです。それまでは、ヘレネもあの恐ろしい心得違いを胸の内に持っていたわけではありますまい。その心得違いのゆえに、わたしらまでが悲しい目にあったのですが」
(オデュッセイア 第23歌)