〈ヒッポリュトスの死〉
パイドラの偽りの書板を信じ込んでしまったテセウスは、怒りに駆られて息子ヒッポリュトスに呪いをかけてしまいます。
浜の方に目をやると、、驚くほど高く盛り上がる波が押し寄せ、波が砕けた瞬間、恐ろしい雄牛が水しぶきの中から現れます。
その恐ろしい姿に驚いた馬たちは激しく怯え、ヒッポリュトスがいくら熟練の手綱さばきで抑えようとしても、制御不能なほどに暴れ狂います。
果たして、ヒッポリュトスの運命は?
エウリピデス作『テセウスの子ヒッポリュトス』③
コロス(合唱隊):15人のトロイゼンの女たち
コロスとは?
ギリシャ悲劇における合唱隊で、物語の補足説明や感情の表現を担当します。物語の背景や登場人物の心情を伝え、合唱やダンスを通じて観客に物語の重要な要素を伝えます。
目次
テセウス、パイドラが残した偽りの書板を見る
[アルゴスのトロイゼン王宮前の広場]
セウス
(死んだパイドラが持っている書板に気づき)
妃の手にあるこの書板は何だ?
コロスの長
何か胸騒ぎがします……凶事が起こりそうな予感がしてなりません。
テセウス
おお、何という悪事だ!口にするのも忌まわしい。ヒッポリュトスめ、無礼にも私の閨(ねや)を汚そうとしたというのか。
おお、ポセイドン様、かつて私に三度まで願いをかなえてくださると約束してくださった呪いを、もし偽りでないなら、今日この日、我が息子を亡き者にしてください。
コロスの長
殿、どうかそのご祈願はおやめください。
テセウス
ならぬ。私がヒッポリュトスを追放するか、ポセイドン様が黄泉の国へ送ってくださるか、どちらかだ。
コロスの長
ヒッポリュトス様が、あちらにお見えになりました。
テセウスの怒り!息子ヒッポリュトスの嘆き
(ヒッポリュトス、数人の従者を従えて登場)
ヒッポリュトス
父上、ただならぬお声を聞き、駆けつけました。おお、これはいったい何事でしょうか。先ほどまで奥方はお元気でおられたのに。
父上、どうかお聞かせください。これはいったいどうしたことなのですか?
テセウス (ヒッポリュトスに顔を背けて)
ああ、人間というものは、なんと愚かな過ちを犯すものか。分別のない者に、分別を教えるのは難しい。
ヒッポリュトス
私から顔を背け、なぜそのような理屈をおっしゃるのですか。私のことを悪く告げる者がいたのですか?
テセウス
おれの子でありながら、父の閨を犯そうとした男よ。死んだ妃がその罪の証拠を残している。これが、神のお供を許された、穢れを知らぬ男だというのか。
(パイドラの死骸を指して)妃が死んだからといって、罪が隠されると思ったのか。おれは、きさまを追放する。一刻も早くこの国を立ち去れ。
ヒッポリュトス
父上、激しいお怒りですが、大神ゼウスにかけて誓います。父上の閨を犯そうとした覚えはありません。そのようなことを望んだこともありません。もし閨を犯した罪があれば、死罪ではありませんか。
テセウス
すぐに殺すのは生ぬるい。生まれた国を追われ、見知らぬ地をさまよい、惨めな一生を送るのが相応しい報いだ。
ヒッポリュトス
なんという酷いお言葉。神々よ、これでも私は黙っていなければならないのでしょうか。いや、言ったところで父上には信じてもらえないでしょう。
テセウス
さあ、こやつを引っ立てよ!
(テセウス、宮殿の中に入る)
ヒッポリュトス
ああ、なんと憐れなことか。知っていることを、どう言えばよいのかわからぬ。アルテミス様、もはや狩りのお供はできません。アテナイを追放される身となりました。
(ヒッポリュトス、退場)
海から雄牛が現れ、ヒッポリュトスの馬車は転覆!
コロスの長
おお、あちらにヒッポリュトス様の供の者が見えます。何やら暗い顔をしています。
(使いの者、登場)
使いの者
おお、トロイゼンのご婦人方、テセウス様はどちらにおいでですか。
コロスの長
ちょうど、殿がこちらにお出ましになりました。
(テセウス、登場)
使いの者
テセウス様、悲しい知らせがございます。ヒッポリュトス様が死に瀕しております。
テセウス
おお、ポセイドン様、私の願いをかなえてくださったのだな。それで、どのような目に遭ったというのか?
使いの者
我々が浜辺にいた時のことです。若様は「父上のお言葉には従わなければならぬ。馬車に馬をつなげ」とお命じになりました。
そして、「ゼウス様、私が生きている間か、死後にでも、父上がこの誤解に気づいてくださいますように」とお祈りされ、鞭を取って出発されたのです。
やがて、人気のない場所に差しかかると、突然、凄まじい音が轟きました。浜の方に目をやると、驚くほど高い波が押し寄せてきたのです。その波が岸に砕けた飛沫の中から、化け物のような雄牛が姿を現しました。
雄牛を見た馬は激しく怯え、いかに若様が馬車の扱いに長けていても、制御は不可能でした。馬は狂ったように岩に向かって走り、後を雄牛が追いました。ついには車輪が岩に打ちつけられ、馬車は転覆してしまいました。若様は手綱に巻かれたまま、頭を岩に強打してしまい、手綱が解けると、虫の息で地上に倒れられました。
さて、これからどうしたものでしょうか。はっきり申し上げますが、殿、私は若様のお人柄をよく存じておりますゆえ、若様の罪は信じられません。
テセウス
おれが憎いと思っている相手だからこそ、この知らせを聞いて嬉しく思う。しかし、わが子であるゆえ、ここへ連れてまいれ。神罰も下ったことだし。
(使いの者、退場)
〈テセウス、アルテミス、ヒッポリュトス〉
月と狩りの女神アルテミス、真実を告げる
(アルテミス、宮殿の上方に現れる)
アルテミス
アイゲウスの子、テセウスよ。私はレトの娘、アルテミスである。
お前がこの状況を喜んでいるのを見ると、心が痛む。パイドラの策略に惑わされ、ありもしない罪を真実だと信じ、非道にも息子を手にかけてしまったお前こそが、罪を犯した者なのだ。
ヒッポリュトスの純粋な心と、パイドラの惑いと崇高な意志を、今こそ明らかにしよう。お前の妻パイドラは、乙女たちが最も忌むべき女神(アフロディテ)の毒にかかり、お前の息子に恋をしたのだ。
彼女は最初、その思いを抑えようとしたが、浅知恵の乳母を頼ってしまったのが運の尽きだった。乳母がヒッポリュトスに想いを伝えたことで、彼女はあの遺書を残して命を絶ったのだ。
ヒッポリュトスは乳母に誓って秘密を守り、だからお前にも告げなかったのだ。仮に話していたとしても、お前は信じなかっただろうがな。
テセウス
おお、なんということだ…女神よ、私は死にたい気持ちでいっぱいだ。
アルテミス
お前だけの罪ではない。あの女神の策略でもあるのだ。神々の世界には掟がある。神の計画は他の神には邪魔できない。私も、ヒッポリュトスが殺されるのをただ見ているしかなかったのだ。
コロスの長
おお、そこにおいたわしい若様がやってこられました。
(ヒッポリュトス、血まみれで僕たちに支えられて登場)
ヒッポリュトス
ああ、死神よ、早く来て、この苦しみから解放してくれ。
アルテミス
哀れな者よ。あまりに気高い心が、お前を破滅へと導いてしまったのだ。
ヒッポリュトス
ああ、アルテミス様…あなたの神々しい香りが漂ってきます。もう二度と、あなたの狩りのお供も、お仕えも叶いませぬ。
アルテミス
すべては、あの嫉妬深いアフロディテの策略だ。
ヒッポリュトス
ああ、今ようやく分かりました。彼女は、父上も、母上も、そして私まで一人で滅ぼしてしまったのですね。
テセウス
息子よ、私はもう駄目だ…生きる喜びもなくなってしまった。
アルテミス
二人とも、悔いるのはもうやめよ。私がアフロディテの最も愛する者を、この矢で射抜き、恨みを晴らそう。さあ、テセウスよ、わが子をしっかりと抱きしめるがよい。では、さらばじゃ。
(アルテミス、姿を消す)
テセウスとヒッポリュトスの和解
ヒッポリュトス
ああ…目の前がだんだん暗くなっていきます。父上、どうか私を抱き起こしてください。
テセウス
息子よ、罪に汚れた私を残していくのか…。
ヒッポリュトス
父上、私の死は、あなたの罪ではありません。これが最後です…どうか、私の顔を外套で覆ってください。
テセウス
ああ、アフロディテよ、この仕打ちを私は決して忘れはしないぞ。
(テセウス、宮殿の中へと去り、ヒッポリュトスの亡骸も担架で運ばれていく)
[終劇]