マルチェフスキ〈死の神タナトス〉
ギリシャ神話には、冥界に関わる神々が数多く登場します。しかしその中で、「死そのもの」を直接司る神は一柱しかいません。それが死の神タナトスです。
タナトスは人間の魂を裁く神でも、罰を与える神でもありません。
人に定められた死の時が来たとき、ただ静かにその命を終わらせる存在です。それにもかかわらず、彼は不死なる神々からさえ憎まれ、恐れられたと伝えられています。
なぜ死の神は、そこまで忌避されたのでしょうか。本記事では、タナトスの系譜と役割、そして彼が登場する神話を通して、その正体に迫ります。
目次
タナトスとは何者か|死そのものを神格化した存在
タナトスは、夜の女神ニュクスの子であり、眠りの神ヒュプノスの兄弟です。
ヘシオドスの『神統記』では、タナトスについて次のように描写されています。
「胸の内なる心は鉄、肝は情け容赦ない青銅で、一度捕えた人間は自分のものにする。不死なる神々にさえ憎まれる奴だ」
この表現から分かるのは、タナトスが感情や慈悲を持たない存在として理解されていたことです。彼は悪意によって人を殺すのではなく、避けられない死を執行する存在でした。
タナトスとヒュプノスは、ともに翼を持つ青年の姿で描かれることがあり、大地のはるか下方、タルタロスの領域に住むとされています。
眠りと死は兄弟神|ヒュプノスとの関係
古代ギリシャ人は、「眠り」と「死」を非常に近いものとして捉えていました。その象徴が、タナトスとヒュプノスの兄弟関係です。
眠りが一時的な意識の喪失であるのに対し、死は永遠の眠りです。この対比によって、死は突発的な暴力ではなく、自然の延長として理解されました。
ホメロスの『イリアス』では、この兄弟がそろって登場し、英雄サルペドンの亡骸を戦場から運び去ります。ここでタナトスは、初めて人格を持つ神として描かれました。
タナトスの役割|魂を冥界へ導く死神
人間の寿命が尽きると、タナトスはそのもとを訪れます。そして髪を一房切り取り、冥界の王ハデスに捧げたうえで、魂を冥界へと連れて行きます。
英雄の魂については、伝令神ヘルメスが冥界まで導くとされる場合もありますが、死の決定権そのものはタナトスにありました。
この点でタナトスは、裁く神でも罰する神でもなく、「終わりを告げる存在」だったのです。
アポロンとタナトス|死の秩序を巡る対立
死期が迫ったテッサリア地方ペライの王アドメトスは、アポロンの計らいによって、身代わりが出れば命を永らえることを許されます。
しかし王の両親はその役を拒み、最終的に王妃アルケスティスが自ら身代わりとなって死を受け入れました
この物語を描いたのが、エウリピデスの悲劇『アルケスティス』です。物語の冒頭で、アポロンは冥界の秩序に干渉し、タナトスは不満をこぼします。
「アポロンさん、また悪さをするんですね。冥界に属する権限を差し止めて、自分のものにしたりなんかして」
このやりとりから、タナトスが死の秩序を守る側の神であったことが分かります。
シーシュポスとタナトス|死を欺こうとした人間
ゼウスは、河神アソポスへの告げ口とテューローの誘惑に怒り、シーシュポスを捕らえるため、死の神タナトスを派遣しました。
しかし、狡猾なシーシュポスはタナトスに手錠の使い方を尋ね、その隙に逆に彼を拘束し、館に幽閉してしまいます。
その結果、世界から「死」が消えました。戦争でも病でも、人は死ななくなったのです。
困り果てた軍神アレスと冥界の王ハデスは、秩序の崩壊を嘆き、最終的にアレスがシーシュポスを捕らえてタナトスを解放しました。解放されたタナトスが最初に与えた死が、シーシュポス自身だったと伝えられています。
なぜタナトスは神々に憎まれたのか
タナトスが憎まれた理由は明確です。彼は誰であろうと例外なく死を与える存在だったからです。
不死の神々にとっても、死という概念は忌まわしいものであり、秩序として必要であっても、好まれる存在ではありませんでした。
タナトスは感情を持たず、交渉も受け付けないため、神々にとっても扱いづらい存在だったのです。
タナトスの系譜|夜の女神ニュクスの子

一般的な夜の女神ニュクスの系図
ヘスペリデスはアトラスの子とされる異説もあります。また、神話には登場しませんが、ニュクスの子としてアパテ(欺瞞)、ピロテス(色事)、ゲーラス(老い)なども挙げられています。
まとめ|死の神タナトスが象徴するもの
死の神タナトスは、恐怖の象徴であると同時に、世界の秩序を支える存在でした。
彼が司る死は、罰でも悪意でもなく、すべての命に平等に訪れる終わりです。その無慈悲さゆえに憎まれましたが、もしタナトスがいなければ、世界は成り立たなかったでしょう。
タナトスは、ギリシャ神話において「避けられない死」と「秩序としての終焉」を体現する、静かな死神だったのです。
フュースリー〈サルペドンを運ぶタナトスとヒュプノス〉

