〈ポリュメストル、ポリュドロスを殺す〉
トロイア最後の王子ポリュリュドロスの死
「娘よ、おまえに捧げられるものは、母の涙とひとつかみの異国の砂だけ。私は敵の生け贄のために、娘を生んだのか? 私は何のために、生きながらえているのか? 神よ、何のためにわたしを生かしておくのか?
そうだ、私には最愛の末息子ポリュドロスがいる。さいわい、この浜辺の地、トラキアの王ポリュメストルの元ヘあずけてある。
ともあれ、娘のむごい傷と血を洗ってやらねば」
ヘカベはポリュクセナの体を抱きかかえると、老いの足を引きずりながら海岸へ行きます。
「さあ、だれか水瓶を渡してちょうだい」
その時です。最後の望みポリュドロスの遺体が、母親ヘカベの目に入りました。彼の傷ついた遺体が、岸辺に打ち上げられていたのです。ヘカベは、声も出ません。トロイアの女たちは、大きな叫び声をあげました。
トロイア陥落の知らせが届くと、トラキア王ポリュメストルは、残酷にもポリュドロスを剣で刺し崖からつき落としたのです。多額の持参金目当てでした。
クレスピ〈ヘカベ、ポリュメストルを殺す〉
ヘカベの怒り
ヘカベは、遺体の傷を見ると、顔をあげ空を見上げました。悲しみは怒りへと変わ理、今や王妃の誇りを取り戻し、彼女は報復を誓います。
そのまま、ポリュメストルの館に向かいました。「ポリュメストル殿、隠していた黄金を息子に渡してはもらえまいか」
欲のはったトラキア王は、彼女の言葉を疑いません。
「ヘカベ様、ようこそおいで下さった。今回の黄金も前に預かっている持参金も、みなご子息にお渡しいたします。ご安心くだされ。神々にかけて誓います」
目の前の恥知らずな男の言葉を聞くと、ヘカベはにらみつけます。怒りを静めなければと思いながらも、怒りは頂点に達しそのまま彼に躍りかかっていました。すかさず、トロイアの女たちも王妃に加勢し、唖然としたトラキア王をおさえつけます。
ヘカベは、両眼に指を突き刺すと、目の玉をくりぬきました。彼女の怒りは、それほどまでに凄まじかったのです。
ヘカベの変身
トラキア王の近臣は、ヘカベとトロイアの女たちに剣で斬りかかり、石を投げつけます。ヘカベはうなり声を上げながらも、飛んでくる石にさえ噛み付こうとします。その声は、もはや人間の声ではありません。神が、彼女を犬に変身させのです。
ヘカベの運命はトロイアの人々だけでなく、ギリシャの人々さえも、神々の心さえも動かします。ギリシャ勢に加担していたゼウスの妃ヘラさえ、「なんと可哀相なヘカベ!」と言ったといいます。
別説では、ヘカベはオデュッセウスの奴隷になった後、彼に呪いをかけようとして発覚し、神が彼女を犬に変えて逃がしたともいわれています。
トロイア戦争後、ギリシャのスパルタにに帰ったヘレネが、元の夫メネラオスと幸せに暮らしていることを思うと、ヘカベの哀れさが涙を誘います。
→ヘカベ[1]女の中で一番不幸なプリアモス王の妃[ギリシャ悲劇]