アキレウスの凱歌
〈アキレウスの凱歌〉
【イリアス 第22歌】

アポロンに騙されるアキレウス

アキレウスはアゲノル(アポロン)を、クサントス河まで追いつめました。
「アキレウスよ、なぜ人間の分際で神を追う。トロイア勢は、すでに城門の中に逃げおうせたぞ」
「遠矢の神アポロンよ、騙しましたな。私をこんなところまで誘い出すとは、なんと理不尽なこと。私はもうすぐ死ぬ運命。仕返しはされないと思われましたか?」
そう言うと、アキレウスはトロイアの城門へと疾駆しました。

ヘクトル、両親の願いに応えず。

迫ってくるアキレウスを見たトロイア王プリアモスは、城門の中に入らぬヘクトルに言葉をかけます。
「ヘクトルよ、頼むからアキレウスと戦うのはやめてくれ。彼は酷薄非道の男。息子たちはすでに何人も殺された。ラオトエが生んだ二人の息子リュカオンとポリュドロスが、まだ帰ってこぬ。すでに、死んでいることだろう。その上、トロイアの希望であるヘクトルよ、お前まで討たれることになれば、トロイアは無残な運命を迎えるだろう」
ヘクトルは、父の声にも城門の中に入ろうとしませんでした。
今度は母ヘカベが胸をはだけ、乳房を出して訴えます。
「わが子ヘクトルよ、そなたの口にあてがったこの乳房を忘れてしまったのか。どうか、母を哀れんでおくれ。そなたが討たれれば、母もそなたの妻アンドロマケもそなたを床に寝かして弔うこともできまい。アキレウスはそれほど無情な男だから」
ヘクトルは、母の声にも動きません。

ヘクトルの迷いと逃走

『困ったことになった。アキレウスが戦いに参戦した時、プリュダマスが私に意見した。あの時引き上げていればよかった。だが、私は耳をかさなかった。そのため、多くのトロイア兵を失ってしまった。今や、トロイアの人々に会わす顔もない。もはや、私はアキレウスと一騎打ちするしかない。
だが、パリスが奪ってきたヘレネーとメネラオスの財産を返し、さらにトロイアの財産を半分を差し出すと誓約したらどうだろう......。
この後におよんで、私は何を考えているのだ。一刻も早くアキレウスと刀を交わそう。どちらが勝つかは、ゼウスがどう判断なさるかだ」
アキレウスは軍神アレスのごとく疾駆してきました。全身の武具は日輪のように輝いています。それを見たヘクトルは勇気も消え失せ、思わず逃げ出していました。アキレウスは追いかけます。そんな二人を見下ろしていたゼウスは、本音と裏腹のことをつぶやきました。
「はて、どうしたものか。追い回されているヘクトルが哀れでならぬ」
アテナが苛立ち答えます。
「もう死ぬ運命が決まっているに人間に対して、なにを仰せられます。死から解放してあげたいなら、お好きなように」
「娘よ、気にせず、そなたの好きにするがよい」
ゼウスがけしかけると、アテナはオリュンポスの山を急いで降りていきました。
それを聞いたアポロンは「もはや、これまで」と、ヘクトルの足を軽くしてやっていたのを止め、ヘクトルから離れました。

アテナの策略

アテナはアキレウスに近づいてささやきます。
「アキレウスよ、私が一騎打ちの勝負をさせてやろう。アポロンをもう気にすることはない」
アキレウスは走るのを止め、槍を地面に突き刺すとその槍にもたれかけます。アテナはヘクトルの弟デイポボスに姿を変えるとヘクトルに近づきます。
「兄者よ、我らはここで一緒にアキレウスと戦おうではないか」
「おお、デイポボスよ、私のために出てきてくれたか」
ヘクトルとデイポボス(アテナ)はアキレウスに近づくと、ヘクトルがアキレウスに提案しました。
「アキレウスよ、どちらが討たれるにせよ、武具を剥ぎ取るのはいいとしても、遺体はそれぞれの家に返そうではないか」
「そんな取り決めなどしない。今こそ、ヘクトルよ、そなたの槍の腕前を示し面目を保て。もはや、逃げかくれはならぬ。アテナが私の槍でおぬしを倒されるであろう」
こう言うや、アキレウスは槍を投げました。ヘクトルは頭を下げてこれをかわすと、槍は彼の後方の地面にささります。アテナはその槍を引き抜くと、ヘクトルには気付かれないようアキレウスに戻しました。

ヘクトルの死

「アキレウスよ、仕損じたな。今度は私の槍を受けてみよ」
ヘクトルが槍を投げると、楯の真ん中に当たりましたが遠くへはじき返されます。ヘクトルは近くにいるはずのデイポボスに代わりの槍を求めましたが、デイポボスの姿はそこにはありません。
『神々は、私の死を決したな。さてはアテナがデイポボスに扮して私をだましたのか。もはや、見苦しい死にざまは避け、華々しく散っていこう』
ヘクトルは、太刀を取りアキレウスに対峙します。アキレウスは槍を持つと、冷静にヘクトルの武具を見つめました。この武具はかつては自分のもの、パトロクロスに貸したものです。体をほとんどをおおう立派な武具ですか、ただ一箇所、体が現れている箇所があります。首です。アキレウスは正確にヘクトルの喉笛を刺しました。ヘクトルは、地面にドーンと仰向けに倒れました。

アキレウスの凱歌

「ヘクトルよ、パトロクロスを倒して安心し、背後に私がいるのを忘れていたか。おぬしの遺体は、野犬や野鳥に食いちぎられる。一方、パトロクロスは丁重に葬られるであろう」
ヘクトルは、弱々しいかすれ声で嘆願しました。
「アキレウスよ、おぬしの両親にかけて頼む。私の遺体は、トロイアに返してくれ」
「私の両親にかけて哀願するのはやめてくれ。おぬしの両親が莫大な身代金を払おうとそうはならぬ」
「やはり無理であったか。しかし、いずれアポロンの矢がおぬしを討ちとることになろう」
そう言い終えると、ヘクトルは息絶えました。
アキレウスは武具を剥ぎ取ると戦車に乗せました。すると、ギリシャ勢は誰もがヘクトルの遺体に槍や太刀を刺します。その後、アキレウスはヘクトルの両足のくるぶしに穴を開け、紐を通すと戦車にくくりつけ、城門の周りを走り始めました。プリアモス王夫妻、トロイアの市民はみんな嘆き悲しんでいます。
卒倒するアンドロマケ
ジョセフ・アビル〈卒倒するアンドロマケ〉

卒倒するヘクトルの妻アンドロマケ

ヘクトルの妻アンドロマケは自宅にいて、夫の死をまだ知りません。が、外のざわめきに不安になり、召使ともども城門に登りました。そこで見た光景、無残にもアキレウスが戦車で夫を引き回してるのを見ると、卒倒しました。しばらくして気がつくと激しく泣き叫びます。
「ヘクトル、私はなんという不幸な女。生まれねばよかった。私たちの息子アステュアナクス(「町の守護者」の意)は、どんな不幸な目にあうことだろうか。ああ、ヘクトル」
※トロイア陥落後、アステュアナクス(本名スカマンドリオス)はまだ幼児であったが、城門から投げ落とされます。
アステュアナクス
〈ギリシャ兵に城門から突き落とされるアステュアナクス〉