〈アドメトスとアルケスティス〉
アポロンは、アドメトスが死ぬ時、誰かが身代わりになれば本人が生きながらえるようにしました。
しかし、実の老いた両親をはじめ、親しい者の誰もが身代わりになろうとはしませんでした。そんな中、妻アルケスティスが身代わりを申し出たのです。
そして、今日、アルケスティスは死ぬ運命にあります。
エウリピデス作『アルケスティス』①
コロス(合唱隊)=町の長老たち
コロスとは?
ギリシャ悲劇における合唱隊で、物語の補足説明や感情の表現を担当します。物語の背景や登場人物の心情を伝え、合唱やダンスを通じて観客に物語の重要な要素を伝えます。
アポロンと死の神
[テッサリアのペライ市、領主アドメトスの館の門前、右高台にアポロン神]
アポロン
我はアポロン神。今日の事の発端は、息子アスクレピオスが死者を生き返らせたことにあった。冥界の王ハデスが、父神ゼウスに苦情を持ち込んだのだ。
冥界の王ハデス「誰であろうと、死人を生き返らせては私の面目が立たぬ。」
ゼウスはハデスの要望を受け入れ、雷火を落として息子アスクレピオスを殺してしまった。私は怒り、雷火を作ったキュクロプス(一つ目巨人)を倒した。その罰として、人間の使用人として1年間、このアドメトスの館で奉公することになった。
そのお礼として、運命の女神モイライをなだめすかし、アドメトスが死ぬ時、誰かが身代わりになれば本人が生きながらえるようにした。しかし、アドメトスの実の老いた両親をはじめ、親しい者の誰もが身代わりになろうとしなかった。
そんな中、アドメトスの妻アルケスティスが身代わりを申し出た。そして、今日この日、アルケスティスは死を迎える運命にある。おや、どうやら死神がやってきたようだ。
(死神、登場)
死神
アポロンさん、運命の女神をだましてアドメトスの寿命を変えただけでなく、その細君アルケスティスの運命まで変えようとなさるのですか?
アポロン
安心しろ、そんなつもりはない。黄泉の国に連れて行けばいいさ。しかし、アルケスティスを生かすことはできないかね?神々に感謝されるだろうに。
死神
若くして死んだ者の魂は、冥界では立派な褒美だ。
アポロン
今のうちに僕の頼みを聞いておけば、神々に嫌われることもないのに。いずれここにやってくる者がアドメトスのもてなしを受け、君の手から細君を奪い取ることになるだろうよ。
死神
何を言っても無駄さ。これからあの女、アルケスティスのもとに行き、死の儀式として、この剣で髪の毛を切り、冥界の神に供物とするのさ。
(アポロンと死神、退場)
コロス、館の侍女に状況を問う
(コロス、門前に集まってくる)
コロス
やけに静まりかえっている。確かに、今日がその日、奥方が黄泉の国へ行かれるはず。奥方アルケスティス様はもう亡くなられたのだろうか。
館の前には、清めの水が入った器も見えぬ。習わしとして亡き人を悼む髪の毛も見当たらぬ。
※こめかみの垂髪を切るのが服喪のしるしであり、その髪の毛を死者の墓前に捧げます。
(館より一人の侍女、登場)
コロス
まだ、奥方は生きておられるのか。それとも、もはやお亡くなりになったのか。教えて欲しい。
侍女
どちらとも申し上げられません。
コロス
奇怪なことを言う。どういうことだ?
侍女
今が、その息を引き取る瀬戸際なのです。奥方様がなさったことを、聞いたら驚かれるでしょう。
まず河へ出て行かれると、真っ白な肌をお清めになり、身なりをお整えになりました。次に家にある女神ヘカテの祭壇とすべての社にお祈りあそばされました。
「女神さま、私はこれから黄泉の国に行きますので、これが最後のお願いです。どうか、親を亡くした子供たちが、このテッサリアで楽しい一生を過ごせますように」
涙を流すことも、お嘆きになることもありませんでした。しかし、居間から寝室に入ると、わっと泣き伏したのです。
「この閨(ねや)は、私が夫に処女を捧げた場所。今、その夫の身代わりとなり死んでいく。さようなら。きっと、誰か幸せな女がここにやってくるのだろう……」
寝室と居間を何度も行き来し、しばらくは気が抜けたようにぼんやりしておられました……。それから、泣いているお子様を抱き上げ、別れを告げられました。私たち侍女も、もらい泣きしてしまいました。そんな私たち一人ひとりに手を差し伸べられ、優しい声をかけてくださいました。
コロス
さぞ、アドメトス様もお嘆きになっておられることでしょう。
侍女
もちろんです。奥様を優しく抱きかかえ、「捨てていってくれるな」と無理をおっしゃって。奥様の息はだんだん細くなり、旦那様の手にも重みが増していきます。それでも、旦那様はまだ望みを捨てきれません。
では、皆様がおいでになったことをお知らせしてまいります。
(侍女、退場)
コロス
ああ、ゼウス様、何かこの不幸から抜け出す道はないものでしょうか。
おお、医師の神様、救いの方法を見つけてくだされ。
あれ、奥方と殿様が館から出てこられる。
〈黄泉の国の渡守カロン〉
瀕死のアルケスティスと嘆くアドメトス
(アルケスティス、侍女に助けられて登場。夫アドメトスと二人の子供もその後から登場)
アルケスティス
見えますわ、黄泉の国の渡守カロンの姿が、私を呼んでいます。
「何をぐずぐずしている、早くしろ、お前のために船出が遅れる」
もうすぐです、私を死神が連れて行きます……。
アドメトス
ああ、私たちはなんて不幸せなんだ。何という目にあうのか。
アルケスティス
離して、もう足に力がないので、寝かせておくれ。
私の子供たち、元気にこの世で暮らして、母はもういなくなるのです。
アドメトス
ああ、なんて悲しいことを。お願いだ、私を見捨てないでおくれ。お前の愛こそ、私たちの宝であり、命そのものなんだから。
アルケスティス
アドメトス様、私はあなた様の身代わりとなって死んでいきます。それなのに、あなたのお父上もお母上も、あなたを見捨てました。息子を助けて立派に死に、名誉を残してもいいお歳なのに。あなたは一人息子、もし亡くなったら、もう子をもうける望みはありませんのに……。
アドメトス様、どうかお願いです。子供たちを愛おしんで、この子を後継にしてくださいませ。そして、後添えはもらわないでください。後添えは、前妻の子供たちを憎んで、命を奪おうとするのが世の常です。
アドメトス
そなたの言うとおりにする。そなた以上の妻など、この国中を探しても見つかるまい。喪に服すのは30日か1年にすぎないが、私は生きている限りそなたを悼む。それも、愛を示すこともなく、口先ばかりの両親を憎みながらだ。
ありし日のそなたの像を作り、寝室にそっと寝かしておこう。そうすれば、そなたの夢を見ることができる。たとえ夢であっても、私にとっては楽しいひと時だ。
もし私にオルフェウスの竪琴の力があれば、黄泉の国の王ハデスと妃ペルセポネの心を揺るがし、そなたを連れ戻せるだろう。黄泉の国の番犬ケルベロスも、渡守カロンも、そなたを地上に戻すのを邪魔しないであろう。
そして私が死んだときには、そなたと同じ棺に入るつもりだ。そなたも冥界で私を待っていてくれ。私は、そなたとずっと一緒にいたいのだから。
アルケスティス
子供たちよ、お父様のお言葉を聞いておくれ。新しい母は迎えず、私に恥をかかせないとおっしゃったことを。
アドメトス
その通りと宣言しておく。
アルケスティス
では、子供たちをお受け取りください。もう、まぶたが重くなってきました。暗闇が……
アドメトス
連れて行ってくれ、私も一緒に黄泉の国へ連れて行ってくれ。
アルケスティス
私だけで十分です。あなたの代わりに死んでいくのは……。
(アルケスティス、死す)