〈アルケスティスの死〉
アドメトスは妻アルケスティスの死を悲しみますが、その死を隠して友人ヘラクレスをもてなします。また、自分の身代わりとして死ぬことを拒んだと非難し、父ペレウスと母を罵るアドメトス。
しかし、妻を犠牲にしてまで生きながらえるアドメトス自身、父に文句を言える立場でしょうか? アドメトスには、人間のさまざまな矛盾が表れています。ここに、深い洞察を持つ悲劇作家エウリピデスの視点が光ります。
エウリピデス作『アルケスティス』②
コロス(合唱隊)=町の長老たち
コロスとは?
ギリシャ悲劇における合唱隊で、物語の補足説明や感情の表現を担当します。物語の背景や登場人物の心情を伝え、合唱やダンスを通じて観客に物語の重要な要素を伝えます。
アルケスティスの死に悲しむ人々
[テッサリアのペライ市、領主アドメトスの館の門前、右高台にアポロン神]
(アルケスティスの息子エウメロスと娘が母にすがりついています)
コロス
アルケスティス様は、逝っておしまいになりました。もうこの世にはおいでになりません。アドメトス様、人は皆、死んでいくものです。耐えるほかございません。
アドメトス
それは承知している。この日が来ることは前からわかっていたのだから。よいか、今から1年間は、楽しい賑わいの笛の音や竪琴の調べは一切、耳にしてはならぬ。
(アドメトス、アルケスティスの亡骸と共に館の中へ)
コロス
実の母も年老いた父も、息子のためには命を捧げなかった。それでも、アルケスティス様は花も盛りの若さで、夫のためにこの世を去られました。
このような伴侶を、私たちも持ちたいものです。
アドメドスの友ヘラクレスの難業
(ヘラクレス、棍棒を手に獅子の皮を肩にかけて登場)
ヘラクレス
みなさん、アドメトス殿には館の中で会えますか。
コロス
ヘラクレス様、アドメトス殿は館の中においでですが、いったい何のご用でこのテッサリアまでお越しでしょうか。
ヘラクレス
ティリュンス王エウリュステウスの難業で、トラキアのディオメデスの四頭立ての馬をもらい受けに来たのです。道すがら、友に会いに立ち寄ったというわけだ。
コロス
それは大変な難業ですな。ディオメデスの馬は、その口で人をも引き裂くと聞きます。
ヘラクレス
その飼い主は、何者なのだ?
コロス
ディオメデスは、軍神アレスの御子です。
※トロイア戦争の英雄ディオメデスとは別人です。
ヘラクレス
アレスの御子か。なるほど、ますます難業が厳しくなってきたな。
〈ディオメデスの人食い馬〉
ヘラクレスに妻の死を隠すアドメドス
(アドメトス、登場)
アドメトス
よくおいでくださいました、ゼウスの子ヘラクレス君。
ヘラクレス
アドメトス君、お元気そうで何よりだ。しかし、なぜ髪を切り、そんな葬儀じみた格好をしているのかね。
アドメトス
これから、ちょっと葬式に行くところなのです。
ヘラクレス
お父上かどなたかが、お亡くなりになったのか。
アドメトス
父も母も、にくたらしいほど元気ですよ。
ヘラクレス
まさか、奥方アルケスティス様が亡くなったのでは?
アドメトス
彼女が負う運命をご存じないのですか。
ヘラクレス
知っている。あなたの代わりに命を捧げると聞いたが、まだ生きておられるのなら、お嘆きは早い。亡くなったのは、一体どなたなのですか?
アドメトス
親戚の女性ですが、大切な者ですから悔やんでいるのです。
ヘラクレス
それならば、こんな折にご厄介になるわけにはいかない。他の知り合いの家に泊まることにしましょう。
アドメトス
そんなことはとんでもない。(従者に)客室にご案内し、しっかりおもてなしをするように。
(耳元で小声で)中庭への扉はすべて閉じなさい。饗応の場に悲嘆の声が聞こえては、客人に失礼になる。
(ヘラクレスと従者、退場)
アドメトスと父ペレスの争い
コロス
アドメトス様、奥様の葬式の日に、なぜ客人をお泊めになるのですか。
アドメトス
せっかく訪ねてくれた客人です。事情を話せば、たとえ気づいてもヘラクレス君は決して私の館に留まらないでしょう。
コロス
アドメトス様、殿のお父上ペレス様がいらっしゃいました。
(アドメトスの父ペレス、葬儀の供物を持って登場)
ペレス
息子よ、堪え難くとも、耐えねばならぬ。この装身具をつけて、丁重に黄泉の国へ送ってやりなさい。息子の命の恩人だ。我が家系も絶えずに済んだ。まことに立派な妻ではないか。
アドメトス
あなたは葬列の一人ではありません。装身具も結構です。ご同情するなら、私が死にかけていたときにしていただきたかった。それを、年寄りの身で若い者を死なせておいて、今さら悔やみごとを口にするのですか。
人生の終わりに差しかかっても、一人息子のために命を捧げようという覚悟も勇気もないのですか。世界中を探しても、こんな意気地のない者はいないでしょう。年寄りが早く死にたいと願うのは、まったく口先だけのことですね。私があなたや母の葬式を行うことはないでしょう。
ペレス
生意気な。あまりに父を侮辱するにも程がある。わしがお前のために死ぬほどの恩義を、お前からは受けておらぬ。また、先祖代々、親が子の身代わりになって死なねばならぬという掟などどこにもない。そんな掟など、ギリシャ中はおろか世界中どこにも存在せぬ。
わしのために死んでくれるな、わしもお前のために死なぬ。その上、己の死を棚に上げ、天の理を曲げて妻に身代わりとなってもらったのだ。お前こそ、恥知らずで卑怯な男ではないか。アルケスティスの兄アカストスが、必ず妹の死に報いるだろう。
アドメトス
(父親を無視しながら)さあ、我々はアルケスティスの亡骸を火葬にする準備をしよう。
(ペレス退場。一同、アルケスティスの棺を担いで退場)