ブロンドル〈ヘカベとポリュクセナ〉
トロイア戦争が終わり、トロイアの都は灰と化しました。勝者も敗者もありません。残ったのは、母たちの悲しい泣き声だけです。
その中で、最も深い悲しみを背負ったのが、トロイア王妃ヘカベでした。
ヘクトルの母であり、プリアモス王の妃としてトロイアの栄光を支えた女性。しかし今や、夫は殺され、息子たちを次々に失い、最後の希望であった娘ポリュクセナまでもが、神々の残酷な手によって奪われようとしていました。
これは、母の愛と怒り、そして神々すら動かした悲劇の物語です。
アキレウスの亡霊と生け贄の要求
トロイアを滅ぼしたギリシャ軍は、勝利の余韻の中で帰路の風を待ちながら、トラキアの浜辺に陣を張っていました。だがその夜、突如として空が暗雲に包まれ、大地が低く唸り声をあげます。
砂浜の上に稲妻が走り、青白い炎の渦から、かつての英雄――アキレウスの亡霊が現れました。
彼の姿は巨大で、兜の下の目は怒りに燃え、声は雷鳴のように轟きます。
風が逆巻き、波が荒れ狂い、松明の火が吹き消される。兵たちは足をすくませ、盾を握る手を震わせました。
アキレウスは、まるで地の底から蘇った復讐の神のようでした。
「ギリシャの軍勢よ、私を忘れて立ち去るというのか。
私の武勇は土とともに葬られたのか。
トロイアの王女ポリュクセナを、生け贄として私に捧げよ!」
その声が響いた瞬間、大地が再び揺れ、空が裂けました。兵士たちは叫び声をあげ、恐怖に顔を覆いました。勇猛なアガメムノンでさえも、その亡霊の怒りに言葉を失ったといいます。
夜の闇の中で、亡霊の鎧が光り、血のように赤い瞳がギリシャ軍を睨みつけていました。
アキレウスは死してなお、戦場の支配者であり、神々すらその怒りを鎮めることはできなかったのです。
ポリュクセナの高貴な死
夜明けの空は薄紫に染まり、アキレウスの墓前には静寂が満ちていました。風がポリュクセナの髪をそっと揺らし、彼女の横顔を淡く照らします。
ヘカベの唯一の支えであった王女ポリュクセナは、その場に立ちながら、もはや死の恐怖を超えていました。涙はなく、瞳は深い湖のように澄んでいます。
「この喉でも胸でも、剣を突き立ててください。奴隷として生きるより、王女として死ぬ方を選びます。母が悲しまぬことを願います。そして、私の遺体を母のもとへ返してください。」
その声は穏やかで、聞く者の胸を締めつける静けさを帯びていました。兵たちは目を伏せ、ネオプトレモスは剣を握る手を震わせます。彼は目の前の少女に、父アキレウスの面影を見ていました。
彼女はゆっくりと衣の襟を開き、白い喉を差し出しました。その姿は、まるで女神が祭壇に立つような気高さに満ちていました。
「どうか、これ以上私の身を辱めないでください。死は恐れません。これは母への贈り物です。」
一瞬の静寂のあと、剣の光が彼女の胸を貫きました。
ポリュクセナの体はそっと地に倒れ、唇には微かな微笑が残りました。
誰よりも誇り高く、誰よりも静かに、美しく散った最期でした。
その光景を遠くで見ていたトロイアの女たちは、すすり泣きながら天に祈りました。
彼女の死は、母ヘカベの絶望のはじまりであり、同時にトロイアという国の魂の終焉でもあったのです。
ヘカベの絶望
ポリュクセナの亡骸を抱きしめるヘカベの腕は、もう震えてもいませんでした。
その瞳から涙は枯れ、ただ空を見上げるだけ。声を出そうとしても、喉が締めつけられて言葉になりません。
彼女は指を折りながら、これまでに失った子の名を一人ひとり、静かに数えます。
ヘクトル、パリス、デーイポボス……そしてポリュクセナ。声が震え、息が詰まる。
かつて王宮の回廊に響いていた子どもたちの笑い声が、今は波の音に溶けて遠くへ消えていくようでした。
「アキレウスは、生きている時も死んでからも、私の子を奪っていく。神よ、なぜ私を生かすのですか。」
彼女の声は風に紛れて消え、誰も答えません。神々もまた沈黙を守っています。
やがて、ヘカベはそっと娘の頬を撫で、ゆっくりと顔を伏せました。
その胸の奥では、かすかな希望がまだ灯っていました。
トラキア王ポリュメストルのもとに預けた末息子ポリュドロス――彼だけは、無事であると信じたい。
その希望だけが、彼女を生かしていました。
最後の希望、ポリュドロスの死
ポリュメストル、ポリュドロスを殺す!
ヘカベには、まだひとつの希望が残っていました。それが末息子ポリュドロスです。
トロイアが長い戦に苦しむ中、プリアモス王はもしもの時に備えて、末子を安全な地へ避難させようと考えました。
信頼していた友人、トラキア王ポリュメストルに金銀財宝とともにポリュドロスを託したのです。
「戦がどう転んでも、この子だけは生かしてほしい」。それが父プリアモスの最後の願いでした。
しかし、戦が終わりトロイアが滅んだと知ると、ポリュメストルの心は欲に染まりました。
彼は預けられた財宝を自分のものとし、少年を闇に葬ったのです。
海岸で娘の血を洗おうとしていたヘカベは、波打ち際に見慣れた衣を見つけました。
その下には、冷たくなったポリュドロスの遺体が横たわっていたのです。
信じていたトラキア王ポリュメストルが、金品を奪うために息子を殺していた――。
母は声も出ず、トロイアの女たちは悲鳴を上げました。
波は静かに少年の体を揺らしていました。まるで眠っているように、安らかに。だからこそ、残酷でした。
ヘカベの怒りと復讐
悲しみはやがて、激しい炎のような怒りへと変わりました。
ヘカベの胸の奥で、長年押し込めていた母の嘆きが煮えたぎる溶岩のように湧き上がります。
彼女は髪を振り乱し、涙で濡れた顔を上げると、もはや老女ではなく、かつてトロイアの王妃だった威厳を取り戻していました。
「神々よ、あなた方が正義を見捨てたなら、今度は私が裁きを行う!」
彼女はトロイアの女たちを集め、密やかに復讐の計略を語りました。
その目はかつての戦場に立つ将軍のように冷たく、静かな怒りに満ちています。
翌朝、ヘカベはトラキア王ポリュメストルの館を訪れ、かすかに微笑みながら言いました。
「王よ、息子に渡していただきたい黄金がございます。どうかお受け取りを。」
貪欲な王は疑いもせず、彼女を迎え入れました。金と権力の香りに酔いしれた男の頬には油断の笑みが浮かびます。
だが次の瞬間、扉が重く閉まり、空気が凍りつきました。
ヘカベの目が燃え上がり、怒りの女神エリニュスのような叫びが響きます。
「これが、母の正義だ――!」
その合図とともに、トロイアの女たちは王に飛びかかりました。髪をつかみ、爪で引き裂き、哀れな悲鳴が石の壁にこだまします。
ヘカベはその両手で王の両目をくりぬき、その血に手を染めながら叫びました。
「我が子の血を返せ! 裏切りの報いを受けよ!」
その声は雷鳴のように轟き、天をも震わせました。怒りはもはや人のものではなく、神々すら恐れたと伝えられます。
クレスピ〈ヘカベ、ポリュメストルを殺す〉
ヘカベ、犬に変えられる
王の兵たちがヘカベに剣を向けると、彼女は獣のように唸り声を上げ、石にさえ噛みつこうとしました。
その声はもはや人の声ではなく、神々は彼女を犬の姿に変えたといいます。
ゼウスの妃ヘラでさえ、その姿を見て「なんと哀れなヘカベよ」と涙したと伝えられています。
別の伝承では、トラキアの地で復讐を果たした後、ヘカベが自ら海へ身を投げ、その魂が犬の形を取ったとも言われます。
また別の説では、オデュッセウスの奴隷となったのち、彼に呪いをかけようとして発覚し、神々が彼女を犬に変えて逃がしたとも。
さらに一部の古代詩人は、「彼女の怒りが天に届き、神々が人の姿を保たせることを恐れた」とも記しています。
このように、ヘカベの変身には多くの説があり、どれも彼女の激しい感情と運命の象徴として語り継がれています。
まとめ:母なる悲しみの象徴として
トロイア王妃ヘカベの物語は、母の愛と悲しみの極致を描いた神話です。
彼女は神々に背を向けたわけではなく、ただ「母としての怒り」に突き動かされたのです。
犬への変身は、彼女の怒りと忠誠、両方の象徴。
同じく子を失ったニオベのように、ヘカベもまた「母の嘆き」の象徴として語り継がれています。
トロイアの城が消えても、ヘカベの叫びは風とともにエーゲ海を渡り続けているのです。

