ブロンドル〈ヘカベとポリュクセナ〉
アキレウスの亡霊
トロイア戦争に勝利したギリシャ勢は、トロイアの対岸トラキアの地で順風を待っていました。
すると、大地が大きく揺れ、突如巨大なアキレウスの亡霊が現れます。アキレウスの顔は怒りに満ちて、まさにあの総大将アガメムノンに立ち向かった時と同じようでした。
「ギリシャの軍勢よ、私のことを忘れて、立ち去ろうというのか。私の武勇への感謝は、土とともに埋められてしまったのか! そうはさせぬ。トロイアの王女ポリュクセナを生け贄として、私に捧げよ」
ポリュクセナの生け贄
今では、たくさんの子供を殺されたトロイア王妃ヘカベの心の唯一の支えが、この王女ポリュクセナです。
彼女はアキレウスの墓前に連れていかれ、剣を持ったアキレウスの子ネオプトレモスを見ても、嘆くことはなく王女として毅然としています。彼女は喉と胸をはだけて言いました。
「今こそ、この高貴な血を役立ててください。この喉へでも、胸でも、剣を突き立ててください。私は、奴隷として誰かの武将に仕える気はありません。ただ、たったひとつ母だけが気がかりです。私は死んでいく喜びをえられますが、母が嘆かねばならないのは、私の死ではなく、これからも悲しみの中で生きていくことです。
それから、もう一つお願いがあります。私は自ら命を絶ちます。が、けっして処女のこの体に男の手を触れさせないでください。奴隷の願いではなく、王女としての願い。そして、遺体は母親の元に返してください」
彼女は、涙を流すこともありませんでした。涙を流していたのは、聞いていた彼女の付き人や武将たちです。儀式を司るネオプトレモスも涙を流さずにはいられません。そして、彼女は突き出された剣に自ら胸を突き刺したのです。
プレボ〈ポリュクセナ〉
トロイアの王妃ヘカベの悲嘆
ポリュクセナの遺体を引きとったトロイアの女たちは、指を折って数を数えました。
このトロイア戦争で何人のプリアモス王家の子供が死んでいったことでしょうか。ヘカベの子だけでも、ヘクトル、パリス、デーイポボス、そしてこのポリュクセナ。カッサンドラとポリュドロスも、すぐ死ぬ運命にありました。
かつて王妃としてトロイアに君臨していたプリアモス王の妃ヘカベ。今は年齢的に女としても、奴隷としても価値がありません。オデュッセウスの奴隷にされたのも、あの英雄へクトールの母親だったからです。
その母親は今や涙もかれ、魂が抜け落ちたポリュクセナを抱きしめて言いました。
「私の子供をおおぜい奪いとったアキレウス。彼がパリスとアポロンの矢で倒れた時、私は言った『少なくとも、もうアキレウスを恐れることはないのだ』と。
まさか、死んでからも、娘までも彼に殺されてしまうとは。墓に入っても、アキレウスは敵だったのだ。私がたくさんの子を産んだのは、アキレウスに殺させるためだったのか。
私は、オデュッセウスの故郷イタケーに連れて行かれる。彼の妻ペネロペイアは、糸紡ぎをしている奴隷の私を指差して、イタケーの女たちにこう言うだろう。『この女が、あのヘクトルを生んだ、高名なプリアモス王の妃だったのだ』と。
......いや、最後の望みがある。一番の末っ子ポリュドロスは、トラキア王に預けてある。耐えて、耐えて、もう少し生きねば」
ヘカベの最後の望みポリュドロスが、彼女の魂を打ち砕くのもすぐそこに迫っていたのです。
→ヘカベ[1]女の中で一番不幸なプリアモス王の妃[ギリシャ悲劇]