〈アキレウスの怒り〉
- 『イリアス』には、トロイア戦争10年間の最後の1年についてだけ記述されていること。
- 『イリアス』は、アキレウスの怒りからヘクトルの葬儀までの物語。ですから、アキレウスの死、トロイアの木馬と陥落、バチカンにある有名なラオコーンの彫刻の物語はありません。
- ゼウスの神慮(アキレウスの母テティスの願い)は、アキレウスの名誉を回復させること。アキレウスがいない間はトロイア軍が有利に戦いを進め、その後アキレウスが出陣してトロイア軍を撃破していく。そこに、ゼウスの妃ヘラの嫉妬心がからみ、トロイア戦争はいろいろな曲面を見せていきます。
娘の解放を願う祭司クリュセス
アポロンの祭司クリュセスは、とらわれた娘クリュセイスの身柄を解放してもらえるよう、たくさんの貢物を持ってギリシャの軍議にやってきました。
「アポロンの神威を考え、どうか娘クリュセイスを自由の身にしてください。そうすれば、トロイアも陥落することでしょう」
ギリシャ軍全員は祭司に敬意を表し、総大将アガメムノンに願いを聞いてやるよう叫びました。
しかし、クリュセイスを愛妾にしていたアガメムノンはこの申し出が気にくわず、祭司クリュセスに暴言を浴びせます。
「老いぼれよ、さっさと立ち去れ!無事に家に帰りたければ、わしを怒らすな!」
おびえた老祭司クリュセスは、引き下がるしかありませんでした。
夜の闇のごとく疾駆するアポロン
途方にくれた祭司クリュセスは、神アポロンに祈りました。
「どうか、私の願いをかなえてください。あなたの弓矢によって、ギリシャ軍を困らせてください」
アポロンはその願いを聞き入れ、怒りに燃えながらオリュンポス山から駆け降りてきました。
怒れる神の矢筒の中で矢がカラカラと鳴り、神の姿は夜の闇のようでした。神がギリシャ軍に悪疫の矢を放つと、たちまち兵士が山のように死んでいきます。これが9日間も続いたのです。
アポロンの怒りの原因を解く占い師カルカス
10日目のこと、地上で多くのギリシャ軍が死んでいくのを見ていたゼウスの妃ヘラは心配し、アキレウスをうながして軍議を開かせました。
「アガメムノンよ、このままでは戦いに勝つどころか、戦わずしてギリシャに帰らねばなりません。なぜアポロン神がお怒りなのか、占い師に訊ねてみましょう」
アポロンより占いの術を授かったカルカスが、立ち上がりました。彼こそが、その術によってギリシャ軍をこのトロイアまで導いてきたのです。
彼はひそかにアキレウスに問います。
「アキレウスよ、アポロンの怒りの原因を解き明かしたら、私はアガメムノンを怒らせてしまうでしょう。私の身の安全を保障してくださるか」
「カルカスよ、安心してアポロンの神慮を述べるがよい。私がいる限り、誰もそなたに手荒な真似はさせない。たとえ、アガメムノンであってもだ」
〈占い師カルカス〉
アキレウスの答えを聞いたカルカス。神慮を皆の前に告げます。
「アポロン神がお怒りなのは、アガメムノンが祭司クリュセスの願いを聞き入れず、恥辱を与えたからです。今となっては身代金もとらず、クリュセイスを開放するしかありません。また、神にも生贄を捧げてください。そうすれば、神の怒りもおさまりましょう」
カルカスの言葉に怒りで立ち上がったのはアガメムノン。その目は烈火のごとく燃えあがり、言い放ちます。
「この禍いの預言者め!アポロンの怒りは、わしが娘を返さなかったからと言うのか!お前は良いことは一度も言わぬ。よかろう、わしとて大切な兵士が死んでいくのは見ておれぬ。クリュセイスは返そう。だが、その代わりに誰かの戦利品をもらいうけるぞ」
※ギリシャ軍が無風のためギリシャのアウリスの港を出航できない時、アガメムノンの娘イピゲネイアを犠牲にするよう言ったのは、このカルカスです。
アキレウスの怒り
アキレウスは、アガメムノンに言い返しました。
「あなたは欲深い人だ。あなたに代わりの戦利品を与えられる者は誰もいない。トロイアを陥落させたら、一番の分け前にあずかるのはあなた。しかし、さらに多くの戦利品で、クリュセイスの分まで償ってもらいましょう」
「アキレウスよ、そんな言葉には騙されないぞ。自分の分け前は手元において、わしだけが娘を返せというのか!それ相応の分け前をくれなければ、アキレウスそなたか、アイアスか、オデュッセウスの分け前を捕りにいく。その前に、神アポロンへの生け贄を捧げて、オデュッセウスか誰かにクリュセイスをクリュセスの元に運ばせよう」
今度はアキレウスが怒ります。
「なんたる強欲な人か!私はトロイアにヘレネを奪った償いをさせようと参加しただけ。トロイア人になんの恨みもない。
だが、私の武力でトロイアの地方の街を滅ぼすたびに、あなたが一番の分け前をとる。私はわずかの戦利品をえるだけで、疲れ切って陣屋に帰る。こんな恥辱を受けながら、あなたの富をせっせと増やすつもりはもうない。私はもう故郷プティエに帰る」
「お前が豪勇無双だというのも、神の授けものにすぎぬ。そうしたければ、逃げ帰るがよい。兵士はたくさんいる。そなたごときは、もう必要ない。だがよく聞け、アポロンの神威だから、クリュセイスは返す。その代わり、そなたの愛妾ブリセイスを迎えに行かせる。そなたはわしといかに身分が違うか悟るであろう。また、他の者にもいい見せしめとなろう」
アテナ降臨! アキレウスを止める
ついに、アキレウスが怒りで剣に手をかけようとした時、ゼウスの妃ヘラが遣わしたアテナが舞い降り、後ろから彼の金色の髪をつかみました。その姿は、アキレウスにしか見えません。
「ゼウスの姫君よ、どうしてこんなところに。アガメムノンの非道をご覧になるためですか。その男は己の傲慢のために、今ここで命を落とそうとしています」
「アキレウスよ、その腹立ちを収めなさい。ヘラはそなたとアガメムノンを愛しみ、私を遣わしたのです。さあ、剣を納めなさい」
「ヘラとあなたのお言葉ならば、従わねばなりません」
アキレウスの言葉に、アテナはオリュンポス山へ帰って行きました。