〈オデュッセウスとカリュプソのいる幻想的な洞窟〉出典
女神アテナは、帰国できずに苦しむオデュッセウスの現状をゼウスに訴えます。ゼウスはその願いを受け入れ、神ヘルメスを遣わして仙女カリュプソに命を伝えます。
オデュッセウスを愛していたカリュプソは悲しみながらも、誓いを立て、筏と旅の準備を整えて彼を見送ります。二人は最後の夜を過ごし、カリュプソは涙をこらえて順風を送り出しました。
オデュッセウスは、不死の愛を後にしながら、再び試練の海へと漕ぎ出します。故郷への想いと、愛との別れ、神々の意志のはざまで揺れる英雄の姿が描かれます。
アテナ、オリュンポスの会議で提言
「オデュッセウスのことは、皆、忘れてしまったのでしょうか。彼は今、彼を引きとめている仙女カリュプソの洞窟で、苦しい日々を送っております。また、彼の故郷では、息子テレマコスを殺そうとしている求婚者たちがいるのです」
アテナの願いを聞き入れた可愛いゼウスは、ヘルメスに命じました。
「ヘルメスよ、オデュッセウスの帰国を、カリュプソに伝えるのだ。ただし、その帰国は、神も人も手を貸さぬものでなければならぬ。筏に乗り、二十日の苦難の末に、スケリア島のパイエケス人の国へ辿り着くようにしてやるのだ」
ヘルメスはただちに金の翼のサンダルを履くと、カリュプソの島へと向かいました。そこは自然に恵まれた、美しい島でした。しばし風景を楽しんだ後、彼はカリュプソの洞窟へと入っていきました。
ヘルメス、カリュプソにオデュッセウスの帰国を命じる
カリュプソはヘルメスの姿を見ると、言いました。
「あなたのようなお方にお越しいただけるとは、うれしい限りです。めったにないご来訪、何なりともお申しつけください。まずは、お食事でもいかがでしょう」
食事が終わると、ヘルメスは静かに話し始めました。
「気の進まぬ用事を、ゼウスから申しつけられました。トロイア陥落後の十年間、誰よりも哀れな男が、あなたの許にいます。ゼウスは、その男を一刻も早く旅立たせよと命ぜられました」
カリュプソは嘆くように言いました。
「ゼウス様は、なんと残酷なお方でしょう。女神が人間の男に心を寄せることを、快く思われないのですね。アルテミスはオリオンをその矢で、デメテルのイアシオンはゼウス様がその雷で打ち殺してしまわれた。
かつて、オデュッセウスの船を粉々にしたのもゼウス様の雷でした。彼の部下たちは皆、命を落としました。彼ひとりだけが船の破片にしがみつき、この島に流れ着いたのです。私は彼を心から迎え入れ、やがて不死にしてあげようと思っておりました。
しかし、ゼウス様の命令とあらば、致し方ありません。私には船も人もありませんが、知恵を授けて彼を出発させましょう」
「では、そのように。くれぐれも、ゼウスの怒りを買わぬように」
そう言い残して、ヘルメスはオリュンポスへと帰って行きました。
〈ヘルメスのカリュプソへの命令〉
浜辺で嘆くオデュッセウス
「不幸な男よ、いつまでも泣き悲しんで命を削るようなことはおやめなさい。私は心から、あなたを祖国へ帰してあげます。木を切り出して筏を組み立てなさい。食料と葡萄酒をたっぷり積み込みましょう。衣類も授け、無事に帰れるよう順風もお送りしましょう」
オデュッセウスは身震いしながら言いました。
「この広大な海を筏で越えよとは……。何か、たくらみでもあるのではありませんか。女神よ、どうかそのような企みはないと、堅い誓いを立ててください。それでなければ、筏に乗るつもりはありません」
「まあ、悪い人。けれども、よく気がまわりますね。では、あの冥界のステュクスの流れにかけて誓いましょう。私は決してあなたに危害を加えません。私には思慮もありますし、あなたのために策も練っております。私の心は鉄ではないのです。あわれむことも知っております」
オデュッセウスとカリュプソの最後の夜
二人は洞窟に戻り、アンブロシアとネクタルの食事をとりました。
「そんなにも帰りたいというのであれば、もはや仕方がありません。お別れを申しあげます。でも、あなたが祖国に帰り着くまでに、どれほどの苦難が待ち受けていることか。この地で私とともに暮らし、不死となったほうが、はるかに良い未来があったというのに。しかも、女神である私の姿形が、恋しい妻に劣るとは決して思いません」
「尊い女神よ、お怒りにならないでください。思慮深い妻ペネロペイアであっても、人間の姿形が女神に劣ることは、私もよく承知しております。しかし、私は故郷に帰ることを願い続けてきたのです。これまでも海の上で、数多くの艱難辛苦をなめてきました。これからさらに苦労が重なったとしても、なんのことがありましょう」
やがて日が落ち、夕闇が訪れました。二人は寄り添い、最後の愛の喜びに浸りました。
オデュッセウスの船出
翌朝、カリュプソはオデュッセウスを島の外れの森へ案内しました。
そこには、枯れて久しく、軽やかに水に浮く巨木が立ち並んでいます。彼はその木を切り出し、材木を並べ、女神が用意したきりで穴を開けました。材木を組み合わせ、木釘を打ち、筏を作り始めました。このときのオデュッセウスは、まるで練達の船大工のようでした。
四日目に筏は完成し、五日目にカリュプソはオデュッセウスを見送ることになりました。女神は彼を風呂に入らせ、香を焚きこめた衣を着せました。そして筏には、酒、水、食物の袋をたっぷりと積み込みました。
「アルクトス(大熊座)を常に左手に見つつ、海を渡れ!」
最後に、仙女は温かく穏やかな順風を送り、オデュッセウスはその風に帆を広げ、心も軽やかに旅立っていきました。
オデュッセウスは、新たな苦難に向けて、筏を進めたのです。