〈娘ミュラと父親キュニラス王〉
ミュラ、不貞の夜
時は豊穣の女神ケレスを祭る期間。ミュラの母親、キニュラス王の妃ケンクレイスも他の女たちとケレスの秘儀に出かけていました。王の寝室には、妻はいません。乳母は王の寝室の戸を開けると、酒に酔っているキニュラス王にこっそりこう告げました。
「実は王様に首ったけの美しい娘がおり、今そこまで連れてきています」
「年は、いくつだ」
「ミュラ様と同じです」
「では、連れてまいれ。妃には言うなよ」
「はい、王様」
乳母は早速、ミュラのところに戻ります。ミュラは不安ながら喜びにあふれました。彼女は闇に紛れて、父親の待つ寝室に進みました。
その罪の行為に星々も隠れ、フクロウも警告のため三度鳴きました。この時に、ミュラと乳母はとどまるべきでした。しかし、乳母に手を取られ、ベールで頭を覆ったミュラは、心にもベールをかけて、父キニュラスの寝室の戸を叩いたのです。
キュニラス王は若い娘に欲情し、ベールで顔を覆ったミュラとは気づいていません。乳母は震えるミュラを寝台に連れて行きました。
「この娘は、王様のものです。どうぞ、お受け取りください」
そう言うと、乳母は王の寝室を去りました。
キニュラス王は娘に気を使い、
「怖がらなくてもよい。名はなんという」
ミュラは答えることができません。うつむいたまま衣服を脱ぎました。こうして、忌まわしい父と娘の罪の行為は始まり、ミュラは罪の子を妊娠したのです。
不貞の発覚と逃亡
キニュラス王と娘ミュラの密会は、その後何度も続きました。そして、ついに娘ミュラであると発覚する時がやってきたのです。何度も逢瀬を重ねるうちに、王はふと娘の顔を見たくなり、寝台の明かりをつけたのです。
その驚きのあまり、我が娘の顔を確認すると剣を取り出しました。ミュラはすぐさま逃げ出しました。こうして、不貞の夜は終わったのです。
身重のミュラは故郷を離れ、まる9ヶ月もの間逃亡生活を続け、疲れ切っていました。知らずしらず、ミュラは神に祈りと願いを口にしていました。
「どこかの神様、この罪人の声をお聞きください。このままこの世に生きて、またあの世に行っても、恥は消えません。どちらの国からも私を締め出してください。私から生をも死をも取り上げてください」
ミュラと没薬(もつやく)とアドニス
こう願うミュラの願いを、ある神が聞き届けました。
足が土でおおわれ、骨は幹になり、血液は樹液になり、手足は枝になり、手と足の指は小枝に変わっていきました。樹皮は体を、身重の体をおおい隠そうとします。樹皮におおわれたミュラは泣いていて、その涙が雫となって樹から滴ります。
その雫は、いずれ「没薬(ミュラ)」と呼ばれるようになります。
子供は樹の中で大きくなり、樹は苦しみに悶え、さらに雫を落とします。見かねた安産の神ルキナが幹に手を当てて祈ると、樹皮の裂け目から玉のように可愛い子が生まれ出ました。この子が、いずれアフロディテ(ビーナス)の愛人になるアドニスです。