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ティテュオスランゲッティ〈ティテュオス〉プロメテウスの絵画?

ギリシャ神話には、同じような罰を受けながら、まったく異なる意味を持つ存在がいます。その代表がプロメテウスとティテュオスです。

どちらも肝臓を喰われ続ける刑に処されましたが、語り継がれ方は大きく違います。英雄として記憶された者と、ほとんど忘れ去られた者。その差はどこにあったのでしょうか。

本記事では、後者であるティテュオスに焦点を当て、彼が「プロメテウスではなかった理由」を神話の文脈から読み解きます。

アポロンの母レトを襲った巨人ティテュオス

ティテュオスは、主神ゼウスと人間の女性エラレーの子とされ、母の胎内にいる時から巨大な身体を持っていたと語られます。

ゼウスは、自らの不貞を激しく憎む正妻ヘラの怒りを恐れ、妊娠したエラレーを大地の下に隠しました。ところが、生まれてきたティテュオスだけは大地の外へ出された、と語られます。このため彼は「大地ガイアにもう一度生まれ直した子」とも言われました。

ある時、デルポイへ向かうレートーの姿を見たティテュオスは欲情し、力ずくでその手を引きます。この行為は、神の秩序を忘れ自らを過信した典型的なヒュブリス(思い上がり)といえるでしょう。

危険を感じたレトは、双子の子アポロンとアルテミスに助けを求めました。

二柱の神はすぐさま矢を放ち、ティテュオスを射殺します。
別の伝承では、この襲撃はヘラの命令によるものともされ、最後はゼウスの雷で討たれた、と語られる場合もあります。

冥界で科されたティテュオスの罰

死後、ティテュオスは冥界に送られ、苛烈な刑を受けます。

巨大な身体を地に横たえられ、二羽の禿鷹が肝臓を喰らい続けるのです。肝臓は再生し、苦しみは終わりません。

この描写は、人類の祖プロメテウスを思い出させます。どちらも「肝臓を喰われる刑」だからです。

ただし、意味は同じではありません。

  • プロメテウス
    人類のために神の火を盗んだ(代償としての苦しみ)
  • ティテュオス
    欲望のままに神の母へ暴力をふるった(罰としての苦しみ)

形が似ていても、物語が伝える芯は正反対です。

『オデュッセイア』に描かれたティテュオス

『オデュッセイア』第11歌で、オデュッセウスは黄泉の国を訪れます。魔女キルケの助言に従い、予言者テイレシアスに会うためです。

その旅の中で、オデュッセウスはティテュオスの姿を目撃します。名も高き大地の女神ガイアの子ティテュオスが、地上に横たわっていました。

九プレトロン(約270メートル)にわたって長々と横たわり、両側には二羽の禿鷹がとまっています。禿鷹は臓腑の中までくちばしを突きこみ、肝臓を食い破っていました。

ティテュオスは己れの手でこれを防ぐことができません。ゼウスの高貴な妃レトが、風光明びなパノペウスを過ぎてデルポイに向かった時、彼女に乱暴を働いた罰を受けていたのです。

ここで強いのは、英雄の悲劇としてではなく、越えてはいけない線を越えた者の末路として描かれている点です。

なぜ「プロメテウスではなく、ティテュオス」なのか

プロメテウスは、苦しみの中に尊厳があります。彼の刑は「人類への思い」の代償です。

一方、ティテュオスには救いも誇りも用意されません。そこにあるのは、欲望に支配された行いと、その結果としての永遠の苦痛だけです。

同じ刑の形を借りながら、神話は言います。

  • 誰かのために背負った苦しみは、語り継がれる
  • ただ欲望のままに踏みにじった行いは、罰として刻まれる

だからこの物語は「忘れられやすい」のに、強く刺さります。

まとめ

ティテュオスは、プロメテウスの影に隠れがちな存在です。しかし彼の神話は、ギリシャ神話が持つ厳しい倫理観を最も直接的に示しています。

同じように肝臓を喰われる刑でも、片方は人のために耐え、片方は罪の結果として終わりなく苦しむ。

この差こそが、神話が読者に残す結論です。

ティテュオス

ヴェチェッリオ〈ティテュオス〉