〈テレトゥーサの枕元に出現するイシス神たち〉
「女の子なら、育てるのは止めにしたい」
クレタ島の都市パイストスに住むリグドスは、身ごもった妻テレトゥーサに言いました。
「私が願っているのは2つ。1つは安産であること。もう1つは、生まれてくる子が、男であって欲しいこと。
女の子なら、体力もなく、生活の役に立たないから、育てるのは止めにしたい」
言ったその言葉に、夫も妻も頬を涙にぬらしました。それほど、貧しかったのです。当然ですが、妻は「そんなことは言わないで欲しい……」と何度も何度も嘆願しました。
しかし、リグドスの決心は変わりません。
女神イシス、現れる
「女の子なら、育てるのは止めにしたい」
テレトゥーサは毎日苦しんでいました。すっかり憔悴した彼女の夢枕に立ったのが、女神イシスです。夫のオシリス神、犬の頭を持つ神アビヌス、牛神アピス、沈黙を促すハルポクラテス、催眠の毒で体を満たしたヘビも姿を見せていました。
「わたしの信者テレトゥーサよ、悩むことはない。生まれた子は、男女どちらでも安心して育てなさい。わたしは〈助けの神〉。願う人々には、いつも手を差しのべます」
こう言うと、女神イシスたちは姿を消しました。
「イピス」と名付けられた子供
やがて月が満ち、女の子が生まれました。
テレトゥーサは夫リグドスに嘘をついて、育てることにしました。祖父の名をとって、子供は「イピス」と名付けられました。
なぜなら「イピス」という名は、男女どちらの名でもおかしくはなかったからです。
また、日々男の子の名を口にすると、嘘をついているようで、心苦しくなります。「イピス」という名なら、名だけは嘘にならないので、テレトゥーサを安心させました。
イピスが13歳になった時、父リグドスは金髪の娘イアンテと婚約させました。彼女はイピスと同じ年で、美しい娘でした。イピスも美しく、二人はお似合いのカップルです。イアンテは早めの結婚を待ち望んでいます。
イピスの絶望「花婿はいない、いるのは花嫁が二人」
しかし、大きくなったイピスは自分が女だと気づいていたので、深い絶望感にとらわれました。女の体では、イアンテを自分のものにできないからです。
「この先、この異様な恋はどこに行くのだろう? あらゆる動物のメスが、メスを慕うことはない。クレタ島に不可思議な恋が生まれるのは、太陽神の娘パシパエ様が牡牛を愛され、あのミノタウロスをお生みになったからだろうか?
あのダイダロスならば、わたしを男に変えられるだろうか? さあ、イピスよ、勇気を出して。心に愛を抱くのは希望。愛すべき人を愛するの! 父の思い、母の祈り、イアンテの望み、みんな希望なのだ。
だが……なのに……『自然』が、わたしを困らせる。婚礼の日は、近い。なのに、花婿はいない、いるのは花嫁が二人……」
〈女神イシスの奇跡、イピスとその母テレトゥーサ〉
女神イシスの神殿での奇跡
早く結婚したいイアンテの望みをわかっていながら、イピスの母テレトゥーサは、仮病や夢の凶兆を理由にして婚礼の日を伸ばしていました。が、ついに、婚礼が明日に迫っていました。
母テレトゥーサはイピスと自分の髪留めのリボンを取りはずすと、乱れたままの髪で、女神イシスの祭壇に祈りました。
「七つの河口を持つナイル河をお守りになるイシスさま。どうかお助けを、この不安を取り払ってください。娘イピスが生きていられるのも、あなたのご忠告とご好意のたまもの。この度も、わたしたち母娘をおたすけください」
祈りが終わると、イシスの祭壇の扉がゆれ動き、イシスの冠の牛のツノがきらめき、楽器シストラムのガラガラという音がしました。涙に溢れていたテレトゥーサは、不安を持ちながらも、その良き前兆に気を良くして神殿を出ました。後には、イピスもついています。
すると、イピスの髪の毛は短くなり、顔つきも凛々しく、色は浅黒く、筋肉は盛り上がりはじめました。また、イピスは、大またになって歩いています。
今や、イピスは男に生まれ変わったのです。彼は母テレトゥーサとともに、次の銘文をつけた貢物を神殿に捧げました。
女であったイピスが この品々を約束し 男となったそのイピスが いま これらを奉納する
翌日、女神イシスと婚礼神ヒュメナイオスが式にやってくると、男となったイピスは、女イアンテをわがものとしました。
〈女神イシス〉出典