ハミルトン〈ヘクトルの遺体を返すよう懇願するプリアモス〉
夜の闇の中、トロイア王プリアモスは莫大な身代金を携え、息子ヘクトルの遺体を取り戻すため敵将アキレウスの陣営へ向かいました。
神ヘルメスの導きで船陣に入り、プリアモスは自分の息子を殺したアキレウスの手に口づけして嘆願します。
その姿に心を動かされたアキレウスも、親友パトロクロスを思い出して涙を流しました。
やがて彼はヘクトルの遺体を返すことを約束し、葬儀のため十一日間の休戦を認めます。
遺体はトロイアへ戻され、妻アンドロマケ、母ヘカベ、そしてヘレネらが嘆き悲しむ中、英雄ヘクトルの葬儀が厳かに執り行われました。
神の導き、夜の陣営へ向かうプリアモス王
ヘルメスはオリュンポス山を下り、夜道を進むプリアモス王の一行に近づいて声をかけました。
「そこのご老人、こんな夜更けにどこへ行くつもりですか。トロイアの方から来たように見えますが、このあたりにはギリシャ勢が多くいます。そんな財宝が彼らに見つかればどうなることか。しかし、私はあなた方に害を加えるつもりはありません。むしろお守りしましょう」
プリアモス王はその若者を見つめて答えました。
「お若い方、神が救いの手を差し伸べてくださったのであろう。あなたは素性の確かな方に見えます」
若者は続けて尋ねました。
「あなた方はトロイアを捨てて逃げるところですか。トロイア最大の勇士ヘクトルが亡くなったと聞きましたが」
プリアモス王は深く息をつきました。
「私の不運な倅のことを、そのように温かく語ってくださるとは。あなたはいったいどこのお方ですか」
若者は答えます。
「私はアキレウスの部下、ミュルミドネスの一人です」
「それならば教えてほしい。わが息子ヘクトルの遺体はまだ残っているのか。それとも犬どもに食われてしまったのか」
「そのようなことはありません。遺体には汚れもなく、多くの兵が刺したにもかかわらず傷一つ残っていません。血もきれいに拭われています。女神アフロディテが守っているのでしょう」
こう言うと若者は馬車に乗り込み、プリアモス王と従者イダイオスをアキレウスの船陣へ導きました。
神は船陣の門をたやすく開き、二人を中へ入れると、ここで初めて自分がヘルメスであると明かし、再びオリュンポスへ戻っていきました。
敵将の手に口づけする老王の嘆願
プリアモス王は静かにアキレウスの陣屋へ入り、そっと近づくと、自分の多くの息子を殺したその手に接吻しました。
アキレウスは仰天します。側近のアウトメドンとアルキメドンも互いに顔を見合わせました。
プリアモス王は語り始めます。
「神々にも似たアキレウスよ、私は多くの息子を軍神アレスに奪われました。そしてついに、トロイアを最後まで守った勇士ヘクトルまであなたに討たれました。私はその遺体を引き取るために来たのです。莫大な身代金も持参しました。どうか私を憐れんでください」
アキレウスは両手でプリアモス王の手を取り、静かに離しました。二人は互いに悲しみに沈みます。アキレウスはパトロクロスを思い、プリアモス王はヘクトルを思って泣きました。その泣き声は陣屋中に響きました。
やがてアキレウスが言いました。
「なんとお気の毒なお方。自分の多くの息子を殺した私の前に単身で来るとは、あなたの心は鉄のようだ。それにしても船陣の門を通れたのは神の助けでしょう。私の母もゼウスの言葉を伝えてくれました。ヘクトルの遺体はお返ししましょう」
アキレウスは側近たちと共に馬車から財宝を下ろし、その中の上等な衣をヘクトルのために残しました。侍女たちに遺体をオリーブ油で清めさせ、ヘクトルの体を丁重に馬車へ載せました。
その後、二人は食事をとります。
プリアモス王は静かに言いました。
「ヘクトルが死んでから、私は初めてパンを口にし、酒を飲みました。それまで何一つ喉を通らなかったのです」
敵味方を越えた約束、十一日間の休戦
アキレウスはプリアモス王に尋ねました。
「ヘクトルの葬儀には何日かけるつもりか。その間は私も兵も戦わぬ」
プリアモス王は答えます。
「ありがたいお言葉です。九日の間弔い、十日目に葬り、十一日目に墓を築きます。ですから十二日目には戦いを再開していただいて構いません」
「ではその期間、戦いは控えよう」
アキレウスはそう言ってプリアモス王の右手を握りました。その後、彼はブリセイスの待つ寝所へ戻っていきました。
ヘクトル、ついにトロイアへ帰る
その夜、ヘルメスがプリアモス王の枕元に現れました。
「ご老人、アキレウスは約束してくれたが、他のギリシャ勢がどう動くかわからぬ。早く立ち去った方がよい」
こうしてプリアモス王はヘクトルの遺体を載せ、トロイアへ帰路につきました。
一行の帰還に最初に気づいたのは王女で預言者のカッサンドラでした。
「町の人たち、ヘクトルが帰ってきました!」
町中の人々が城門へ集まり、涙を流しました。母ヘカベと妻アンドロマケは、かわるがわるヘクトルの頭を抱きしめます。
ダビッド〈アンドロマケ、ヘクトルを悼む〉
トロイアの嘆き、英雄ヘクトルへの最後の別れ
アンドロマケは嘆きました。
「旦那様、あなたは若くして亡くなり、私は寡婦になりました。私たちの息子もやがて殺されるでしょう。町の守護者であるあなたがいなくなれば、トロイアも滅びるでしょう。私たち女は奴隷となり敵の船へ連れて行かれるのです」
母ヘカベも涙を流します。
「ヘクトルよ、そなたは一番愛しい息子だった。アキレウスに引きずり回されたのに、今もその顔は美しい」
ヘレネもまた嘆きました。
「私は戦争の原因となり、厄病神のように罵られました。それでもあなたはいつも優しく私をかばってくれました。だから私はトロイアで長く生きてこられたのです」
プリアモス王は人々に告げました。
「薪を運べ。アキレウスは十二日目まで戦わぬと約束してくれた。その間にヘクトルの葬儀を行う」
十日目の朝、ヘクトルの遺体は薪の上に置かれ、火が放たれました。
『イリアス』End
![ヘクトルの遺体返還へ!老王プリアモス、敵陣へ命がけの旅[イリアス第24歌 前編]](https://greek-myth.info/wp/wp-content/uploads/2018/10/Body_of_Hector-300x235.jpg)
