〈禁断の恋に悩むテセウスの妻パイドラ〉
テセウスの息子ヒッポリュトスは人間でありながら、処女神アルテミスと共に狩りに行くのが日課でした。彼は女性には全く興味がありません。
その「女性に興味がないこと」が愛の女神アフロディテを敬わないこととなり、ヒッポリュトスは女神の怒りを買ってしまいます。女神は直接ヒッポリュトスを責めるのではなく、恐ろしい策略を考えました。
そして、その策略の犠牲となったのが、テセウスの妻でありヒッポリュトスの継母であるパイドラでした。
エウリピデス作『テセウスの子ヒッポリュトス』①
コロス(合唱隊)=15人のトロイゼンの女たち
コロスとは?
ギリシャ悲劇における合唱隊で、物語の補足説明や感情の表現を担当します。物語の背景や登場人物の心情を伝え、合唱やダンスを通じて観客に物語の重要な要素を伝えます。
恋の女神アフロディテ、ヒッポリュトスに怒る
[アルゴスのトロイゼン王宮前の広場]
(アフロディテ、舞台の上方の神座に姿を表す)
アフロディテ
私は愛と美の女神アフロディテ(ビーナス)。私に逆らい、思い上がった振る舞いをする者は、神であろうと人であろうと容赦なく打ち倒す。
テセウスの息子ヒッポリュトスは、私を忌むべき神と呼び、愛の喜びを卑しいものとして独身を貫いている。それどころか、アポロンの妹である処女神アルテミスを最高の神と崇め、狩りの供までしているのだ。
だからこそ、私はテセウスの妃パイドラに彼を愛する心を植えつけた。そして、テセウスがその恋心を知るように仕向けるつもりだ。
テセウスは、ヒッポリュトスを激しく呪うだろう。海神ポセイドンがテセウスに三度までかなえると約束した呪いをもってして。
見よ、ヒッポリュトスが姿を現した。彼がこの世で陽の光を浴びるのも、今日が最後となるだろう。
(アフロディテ、退場)
若きヒッポリュトスの驕り
(ヒッポリュトス、従者を伴い登場し、アルテミスの神像に花輪を捧げる)
ヒッポリュトス
この花冠は、徳を持つ者だけが摘むことを許される「純潔の野」から摘みました。さあ、愛しい女神よ、黄金の髪飾りとしてどうかお受け取りください。
(従者の中の老僕がヒッポリュトスの前に出る)
老僕
若様、この老僕からの忠告をお聞きくださいませ。
ヒッポリュトス
言うまでもない。
老僕
では、アフロディテの神像にもお参りくださいませ。
ヒッポリュトス
(アフロディテの神像に向かって遠くから軽く頭を下げ)
私は恋愛には無縁の人間です。あの女神には、遠くからご挨拶するにとどめておきましょう。
老僕
しかし、あの方はこの世で大いに尊ばれる、力ある神様でございます。
ヒッポリュトス
神とはいえ、好き嫌いがあるのは仕方のないことです。
(ヒッポリュトス、従者と共に王宮へと退場)
老僕
アフロディテ様、若さゆえに気負って不敬な発言をいたしましたが、どうかお許しくださいませ。
(老僕、退場)
禁断の恋にやつれ果てたテセウスの妃パイドラ
(コロス=15人のトロイゼンの女たち、登場)
コロス
お妃様はもう3日も何も召し上がらず、死出の旅までなさっていると聞きます。まさか、テセウス様が不倫の恋に酔いしれているのでしょうか。
コロスの長
おや、乳母様がやつれたお妃様を宮殿からお連れしてこられます。
(乳母と数人の侍女が、宮殿の中よりパイドラの臥所を運び出す)
パイドラ
私を起こして、どうか山へ連れて行ってちょうだい。狩りの犬が鹿を追って駆けめぐるもみの林に登りたいのです。さあ、早く。この右手に持った投げ槍を、あの方のように投げてみたいのです。
乳母
姫様、どうか落ち着いて、とりとめもないことをおっしゃらないでください。
パイドラ
ああ、不幸な私。どの神の祟りで、私は狂ってしまったのでしょう。恥ずかしい、婆や、顔を隠してちょうだい。
乳母
はいはい、お顔を隠して差し上げます。
コロスの長
もし、乳母様。パイドラ様のご病状は一体どのようなものですか。教えていただけませんか。
乳母
私にも分かりかねます。いくらお尋ねしても、お答えがなく、原因がわからないのです。
コロスの長
テセウス様は、その様子を黙ってご覧になっているのですか。
乳母
殿様は、あいにくご不在でございます。
コロスの長
では、あなた様が何とか聞き出さなければなりませんね。
乳母
あらゆる手を尽くしましたが、このまま奥様が亡くなられてしまうと、私たちはあのアマゾンの子、ヒッポリュトス様にお仕えすることになります。
パイドラ
(急に顔を上げて)えっ、なんですって!息が止まりそう。婆や、どうかあの方の名前は二度と私の前で口にしないでください。
乳母
姫様、どうかお気を確かに。お腹の子のためにも、ご自分にとって良いことをなさってくださいませ。
パイドラ
私の悩みは別にあります。心に穢れがあるのです。私を苦しめているのは、とても親しい人なのです。
乳母
まさか、テセウス様がお妃様に何かひどい仕打ちを?
パイドラ
いいえ、私があの人に間違いを犯さないようにすることばかりが気がかりです……
乳母
それならば、打ち明けてください。婆やが何とかいたしましょう。
パイドラ
どうしましょう、話すことはできない。でも、話すしかない……
パイドラの恐るべき告白
パイドラ
お気の毒なパーシパエお母様、牡牛を愛してミノタウロスを生んでしまった。悲しい妹アリアドネーは、テセウス様に置き去りにされ、酒神ディオニュソス様の妻になった。そして、三度目はこの私。惨めに滅んでいくのでしょうか。
ところで、婆や、世間では恋とはどんなものと言っているの?
乳母
何よりも楽しいものだと。しかしまた、辛いものでもあると申しております。
パイドラ
私の恋には楽しさはなく、辛いことばかりです。
乳母
姫様、なんとおっしゃいました。恋をしていらっしゃるのですか?いったい、どのお方に?
パイドラ
それは、あの……アマゾンのお子の……
乳母
ヒッポリュトス様ですか?
パイドラ
(両手で顔を隠し、床に崩れ伏す)それを言ったのは婆やですよ。私ではありません。
乳母
(コロスに)皆さん、こんな恐ろしいことには、私は死んでしまいます。正しい方でありながら、姫様を不倫の恋に陥らせるアフロディテ様は、本当に恐ろしい。
コロスの長
皆さん、お妃様の口から恐ろしいことをお聞きしました。私ならば、そんな苦しみを味わうよりは死ぬのが本望です。おいたわしや、クレタのお妃様。今日一日、これからどんなことが起こるのでしょうか。