〈アガメムノンとされていたミケーネの葬儀用マスク〉
オレステイア三部作とは『アガメムノン』、『供養する女たち』、『慈しみの女神たち』のことです。
トロイア戦争の総大将として遠征したアガメムノンが、凱旋して間もなく妻クリュタイムネストラとその情夫アイギストスによって殺害されるまでが『アガメムノン』です。その後、長い放浪の末に帰国した息子オレステスが姉エレクトラと再会し、母とその情夫を殺して復讐を果たす『供養する女たち』が続きます。
しかし、オレステスは母を殺した罪により復讐の女神(エリニュス)に追われ、狂乱して各地を放浪します。最終的にオレステスはデルポイのアポロン神殿で神託を受け、アテナイに行き最高法廷で裁かれることになります。
その結果、オレステスは女神アテナから赦されます。一方、復讐の女神(エリニュス)は怒りますが、アテナイ市を守る女神として祀られます。これが『慈しみの女神たち』です。
オレステイア三部作 第1作
アイスキュロス作『アガメムノン』①
コロス(合唱隊)=アルゴス市の長老たち
コロスとは?
ギリシャ悲劇における合唱隊で、物語の補足説明や感情の表現を担当します。物語の背景や登場人物の心情を伝え、合唱やダンスを通じて観客に物語の重要な要素を伝えます。
トロイア陥落の松明の火
[夜更けのアガメムノン宮殿前]
物見の男
奥方様〜、トロイアの陥落の知らせです。起きてください。歓迎と祝いの準備を。
(独白)もとはいえば、この物見は男のような企みを謀るお奥方様が指図されたことなのだが、その理由は内証、内証。
(館の中に明かりが灯り、あわただしくなる。知らせを受けたコロス=市の長老たちとアガメムノン王妃クリュタイムネストラ登場)
コロス
アトレウス家のアガメムノン様とメネラオス様がギリシャ勢を率いてトロイアに攻め入り、はや10年。この知らせは、真実なのですか。喜ばせておいて、間違いということはよくあること?
クリュタイムネストラ
真実の知らせです。
コロス
では、その証拠はございますか?
クリュタイムネストラ
トロイアのイーダ山から合図の松明の火が送られて、火の飛脚がここまでも持ってきました。
コロス
奥方様、詳しくお教えください。
クリュタイムネストラ
今日という今日、ギリシャの兵がトロイアを陥落したということです。市の中に征服された者の声が、聞こえるようです。また、勝者は貪欲な心に負けずに略奪などしないでほしいものです。トロイアの守り神の御社を敬うなら、無事に帰国できましょう。
コロス
奥方様、分別のある殿方のような利発なお言葉でございます。
(クリュタイムネストラ宮殿の中へ)
吉報を待ち望んでいたアルゴス市の長老たち
コロス
もうすぐ分かるだろう、松明の伝令が真実か、夢なのかどうか。あれ、浜辺から伝令の使いが来る。しっかりと人の口から聞きたいものだ。
(伝令登場)
伝令
おお、アルゴス国のなつかしい地面よ、10年目に帰ってきたぞ。ゼウス様、アポロン様、あらゆる神々様。帰ってきた軍をお受け入れください。ここにいる皆様、アガメムノン王を歓迎してください。トロイアを滅ぼした大将を。
コロス
伝令の方、この10年間どんなに暗い心で吉報を待っていたことか。
伝令
トロイアでの宿営の悪さ、冬のイーダ山の大鳥でも死ぬという雪嵐の寒さ、夏の大海原の気怠い暑さ、嘆いても戻らない死んでしまった兵士、これらはすべて昔のこととなりました。
トロイアを陥落させたのですから。失ったものを超える戦利品を手に入れた将軍たちを讃えましょう。大神ゼウスを崇めましょう。
コロス
王宮の人たち、急いでクリュタイムネストラ様にもこの知らせをお伝えくだされ。
(クリュタイムネストラ登場)
クリュタイムネストラ
私はさっきから万歳をあげていました。皆様は、女の松明の話など信じていないようでしたが。また、殿ご自身から詳しく聞かれますゆえ、伝令の方から聞く必要はありません。
(クリュタイムネストラ退場)
コロス
ところで、メネラオス様や他の将軍たちはすでにご帰国されましたか?
伝令
他の船に乗った将軍たちのことは、存じあげていません。
※トロイアの姫カサンドラを陵辱した小アイアスに怒った女神アテナが、ギリシャ軍を散々な目に合わせました。オデュッセウスはその後10年間にわたる放浪をしました。
アガメムノンの凱旋帰国
(カッサンドラを連れたアガメムノン王の凱旋帰国)
コロス
アトレウス家の王様、お帰りなさいませ。トロイアの都を打ち滅ぼしたお方。当初ヘレネたった一人のために遠征軍を起こすとは少し興ざめに思っておりましたが、ことを成し遂げた今なら、もう疎ましくは存じませぬ。
アガメムノン
御身らの心のうちは聞き知っておる。わしも、御身らの意見と同じ所存であった。だが、わしの第一のつとめは、まずトロイアに報復したことを神々に感謝することであろう。
(クリュタイムネストラ登場)
クリュタイムネストラ
私は、これまでの淋しい心のうちをお話しても恥ずかしいこととは思いません。殿様が怪我をしたなど意地の悪い噂のため、死にたいと思い、何度梁に縄をかけたことでしょう。
しかし、他の良い噂がその縄を外してくれました。今のわたしには湧き出る涙の泉も、すっかり枯れ果ててしまいました。夜寝つかれない目は、今も腫れて痛みます。
こうしたわけで、殿様に何かあった場合、災いにあわぬよう息子オレステスはポーキスのストロピオス様のところに預けました。なんにせよ、苦しみを逃れ出るのは楽しいことです。
(侍女に)何をぐずぐずしているのです。殿様の通り路に紫の敷物をしきなさい。
アガメムノン
女神レダの娘よ、わしの留守の間よく王宮を守ってくれた。しかし、歓迎にあまりの贅をつくしてはならぬ。神の嫉妬を招くのはよくない。神としてでなく、人間の夫として敬ってくれと言っておるのだ。
※クリュタイムネストラはヘレネとは双子の姉妹で女神レダの娘。
クリュタイムネストラ
一つお訪ねしとうございます、ほんのご心中を。もしトロイアのプリアモス王が勝利したとすれば、彼はどうしたとお考えですか。
アガメムノン
きっと美しい錦の敷物の路を歩んだろうなあ。
クリュタイムネストラ
では、お聞き入れを。わが王宮には、黄金にもひとしい衣を染める紫貝が豊富にありますから。
アガメムノン
御身がぜひと言われるなら、裸足で紫の上を歩んで、館に入るとしよう。
(アガメムノン車駕を降りて、厳かに王宮の門に進む)
クリュタイムネストラの邪心
クリュタイムネストラ(独白)
いとしい娘イピゲネイアの命を取り返す工夫をこらしていた折、ご神託をいただくお宮で、私にそう指図がありましたら、いくらでも殿の血で染まった敷物を差し出しましょう。殿が、館にお帰りあそばれたのは、嵐の冬が立ち戻ったとの報せのようです。
ゼウス大神が、まだすっぱい葡萄の房から酒を醸し出された今、寒さが館に戻ってきます。申し分なく務めを果たす殿御(情夫アイギストス)が家に来ていますから。願いを果たしてくださるゼウス大神、どうか私の願いを叶えさせてくださいませ。