〈パイドラとヒッポリュトス〉
乳母「名よりも実を取り、貞淑の誇りをもって死をお選びになるよりも、お命をお取りなさいませ。」
パイドラ「黙りなさい。今、私は恋のとりこになっているので、あなたの言葉に乗ってしまいそうになります。」
乳母から継母パイドラの自分への想いを告げられたヒッポリュトスは、激しく激怒し、乳母とパイドラをののしります。ついに、パイドラは死を決断します。
パイドラの死を目の当たりにしたテセウスは……
エウリピデス作『テセウスの子ヒッポリュトス』②
コロス(合唱隊):15人のトロイゼンの女たち
コロスとは?
ギリシャ悲劇における合唱隊で、物語の補足説明や感情の表現を担当します。物語の背景や登場人物の心情を伝え、合唱やダンスを通じて観客に物語の重要な要素を伝えます。
パイドラの迷いとためらい…
[アルゴスのトロイゼン王宮前の広場]
パイドラ
私は、最初ずっとこの気持ちを隠していました。そして、女の操を守るため、この煩悩を克服しようとしたのです。しかし、愛の女神アフロディテ様には勝てないとわかった時、死ぬしかないと思いました。
コロスの長
操を正しく保つことは、いつの世にも尊いことです。人々にも崇められましょう。
乳母
姫様、恋する者が死なねばならぬのなら、それは理不尽でございます。そして、よからぬことは伏せておく、それが世間の知恵というものでございます。姫様、この恋にお心をお決めなさいませ。
コロスの長
パイドラ様、乳母の申されましたことも方便かと思いますが、お妃様のご決心のほうが尊いものと存じます。
パイドラ
その通りです。このような恋は、栄えた国を傾けさせたり、家を滅ぼしたりするものです。
乳母
そんな説教じみた話はお止めください。ヒッポリュトス様に一刻も早くお伝えして、どうお出になるか探らねばなりません。今は姫様のお命を救うかどうかの大事な瀬戸際です。
パイドラ
まあ、なんと恐ろしいことをお前は言うの。
乳母
名よりも実を取り、貞淑の誇りをもって死をお選びになるよりも、お命をお取りなさいませ。
パイドラ
黙りなさい。今、私は恋のとりこになっているので、あなたの言葉に乗ってしまいそうになります。
乳母
私の言うことをしっかりお聞きくださいませ。私は恋に効く秘薬を持っています。姫様さえよければ、この秘薬がすべて解決してくれます。ただし、ヒッポリュトス様の髪の毛や着物の切れ端を手に入れねばなりません。
パイドラ
その秘薬とは、飲み薬なの? 塗り薬なの?
乳母
姫様は知ろうとは思わずに、ただ助かりたいとお思いください。
パイドラ
心配です。お前がテセウス様の御子に何か漏らしたりはしないかと思うと。
乳母
さあ、私にお任せくださいませ。婆やが上手にとりはからいましょう。
(立ち去りながら、アフロディテ像の前に来ると)アフロディテ様、私にお力をお貸しくださいませ。
(乳母、宮殿の中に入る)
乳母の告げ口が仇となり、パイドラ絶望する!
パイドラ
(宮殿の中の様子に聞き耳を立てる)
みなさん、静かに。ああ、私はもう駄目です……
コロスの長
パイドラ様、何か悪いことでも起きましたか?
パイドラ
黙って……ああ、なんという因果な私。私はもう立つ瀬がありません。大声で叫んでいるのはヒッポリュトス様。婆やをののしっておいでです。
コロスの長
叫ぶ声が聞こえますが、何と言っているのかはっきりとは聞き取れませぬ。
パイドラ
ヒッポリュトス様は「忌まわしい取持ち婆め、主君の閨を犯すものだ」と。
ああ、何という私の不運。婆やがあの方に、私の苦しみを打ち明けてしまったのです。
コロスの長
乳母の告げ口が仇となりました。お妃様、この難しいお立場をどうなさいますか?
パイドラ
もう、一刻も早く死ぬだけです。
激怒するピッポリュトス!
(ピッポリュトスと乳母、宮殿より登場)
ピッポリュトス
おお、なんという怪しからぬ言葉を聞くことであろう。
乳母
若様、人に聞かれませぬように。どうか私を哀れと思し召してください。
ピッポリュトス
ああ、ゼウス様。どうして、あなたは人間のために、女という偽りに満ちた禍いをこの世にお作りになったのか。人間の種族を増やすおつもりであったならば、女によらずになさるべきでした。
(乳母に向かい)この女も、触れてはならぬ父の閨に誘いをかけた!
父上がお留守の間は、私は屋敷を出て行く。父上が帰られたら、私も帰ってきます。
(乳母とパイドラに)お前たち二人がどんな顔をして、父上を迎えるのか見物するとしよう。
コロスの長
乳母のなさったことがすっかり外れて、取り返しのつかぬことになりました。
パイドラ
(乳母に向かって)この人でなし。なんということをしでかしてくれたの!お前の考えを見通して、黙っていてちょうだいと言ったのに。
あの人は腹を立てて、テセウス様にも、祖父のピッテウス様にも話してしまうに違いありません。国中に悪い噂が立ってしまう。お前は、死んでしまえばよい。
乳母
私は、小さい頃からお嬢様のためを思って……うまくいっていれば、私は賢い女と言われたに違いありません。今からでも、まだ助かる道はございます。
パイドラ
もう、何も聞きたくありません。さっさと引き下がって。自分のことは自分で片をつけます。
(乳母、退場)
パイドラ
それから、トロイゼンの皆様(コロス)、このことは決して口外なさらぬよう、お願いいたします。
コロスの長
決して他言いたしませぬ。ゼウスの御娘アルテミス様にかけて誓います。
パイドラ
ありがとうございます。私に残された手立ては、もうひとつしかありません。故郷クレタの実家に泥をぬるようなことや、テセウス様の前に出ることはできませぬ。
コロスの長
では、お妃様は容易ならぬお覚悟でございますか?
パイドラ
そうです、しかし私は死ぬだけでなく、あの高慢な人にもひどい目に遭わせます。あの鼻をへし折ってやります。
(パイドラ、侍女に寝台の床を運ばせながら退場)
コロス (歌い踊る)
お妃様が女神アフロディテのお遣わしの
道ならぬ恋に落ちてしまわれた。
耐え難いお悩みに打ちひしがれて
お妃は花嫁の間に垂らした紐を
白いうなじに巻こうとなさる。
パイドラの死と落胆するテセウス
侍女
(王宮の中より)大変です!
お妃様が首を吊っておいでです。どなたか、紐を切る刃物を持ってきてください!
コロス
どうしたものでしょうか。
(テセウス、従者を従えて登場)
テセウス
女ども、召使たちが宮中で騒いでいるのはどうしたことだ。ピッテウス老に何かあったのではあるまいな。
コロスの長
殿様、お妃様がお亡くなりになりました。何とお悔み申し上げてよいのやら。
テセウス
なんと、妃が死んだと申すか。どうしたわけだ。
コロスの長
自ら首をつってお果てになりました。私たちもつい今しがた来たばかりで、理由は存じ上げません。
テセウス
おい、門を開けよ。あれに先立たれては、生きがいがなくなってしまった。
(門が開き、寝台に横たえられたパイドラの亡骸が見える)
テセウス
妃よ、どうしてまた、死のうなどと思いつめたのだ。ああ、そなたを失ってしまった……おれの運命も極まったのか。誰か、ことの次第を話してくれ。
コロスの長
この上、また何か悪いことが起こりはせぬか、それが気がかりです。